丸山 淳子
ずいぶん昔からよく知っている気がする場所。思えば、かれこれ20年以上前から、ずっと親しみを持っているところ。なのに、実は、まだ一度も訪れたことのなかった場所。それがロバンダ村だった。
最初の出会いは、私が大学院の1年生のときだった。当時、同じ研究室に机を並べていた岩井さんは、タンザニアでのフィールドワークを何回もこなした大先輩で、お茶目で面倒見の良いお姉さんでもあった。その岩井さんを通じて、私はロバンダ村の存在を知った。たしかあれは、岩井さんが博士論文を書くための準備段階だったのか、小規模なセミナーで、ロバンダ村の話を聞いた。国立公園に隣接するロバンダ村には、乾季がはじまるころにたくさんのヌーが走り抜けること、村人は大喜びでヌーを捕らえようとするけれど、動物保護の対象であり、貴重な観光資源でもあるヌーを狩猟することは、取り締まりの対象となること。その話は、これからアフリカの狩猟採集民の研究をしようと計画していた私の心にとても響いた。自然保護区の近くで狩猟を続けることが、いかに難しいことなのか、初めてのフィールドワークを目前に、私は一筋縄ではいかない現実を突きつけられた気持ちだった。
それからしばらく経って、岩井さんや、そのほかのたくさんの研究仲間と一緒に、私たちはNPO法人アフリック・アフリカを立ち上げることになった。私自身もアフリカでフィールドワークを重ねるようになり、岩井さんはロバンダ村を舞台にした博士論文の完成間近だった。私たちは、研究だけでは飽き足らず、アフリカでお世話になった人々の抱える苦難を一緒に乗り越えていきたい、そして、アフリカから得た多くの学びを日本に暮らす人々ともっと直接的に分かち合いたい、そんな思いを、半ば夢見がちに連日のように話し合った。このままアフリカ研究を続けていても仕事があるかどうかわからない、それなら、せめてアフリカと関わり続けられる場を自分たちでつくろう、そんな現実的な話もした。そのなかで、アフリカでのプロジェクトとして、もっとも明確な姿で現れきたのが、ロバンダ村の子どもたちに奨学金を出すというものだった。そうやってはじまった「セレンゲティの雨基金」は、NPO法人として誕生したばかりだったアフリック・アフリカの中核となり、そして、まだ計画とも呼べないようなふわふわとした私たちの夢に具体的な形を与えてくれるものだった。
やがて、アフリック・アフリカの活動も軌道に乗りはじめ、その幅も広がっていくなかで、ロバンダ村の抱える深刻な問題が、岩井さんを通じて、私たちに共有されることになった。隣接する国立公園から村のなかへと、ゾウがやってきては、農作物を荒らし、ときに、人にまで被害を与えているという。ゾウが村に入ってこないためにはどうしたらよいのか、岩井さんはアイディアを練り、私たちもそのことを会議のたびに話しあった。いろいろな試行錯誤があったけれど、その中のひとつが、たくさんの養蜂箱を仕掛けることによって、ミツバチの羽音を嫌がるゾウを追い払うという作戦だった。岩井さんとロバンダ村の人々は、すでに実績を上げていたケニアに研修に行ったり、地域の他の組織とも協力したりしながら、「ハッピーハニー・チャレンジ」と名付けたこのプロジェクトを進めた。この挑戦に賛同し支援する人は、養蜂箱1つ分の寄付をすると、そこに自身の名前を書いてもらえるという試みも始まった。この頃には、どうにか職を得ることのできた私も、たったの1つだったけれど、養蜂箱を寄付した。行ったこともないけれど、ロバンダ村には、私の名前が書かれた養蜂箱がある、そのことは、予想したよりも、うんと私の気持ちを明るくした。アフリカに行けない学期中、仕事帰りにふと、その養蜂箱を思い出し、ロバンダ村の人たちを想像したりしていた。
そして、今回、ついにロバンダ村を訪れる機会に恵まれた。世界有数の観光地である国立公園の中を突っ切る長く埃っぽい道を延々と進んだ先に、ロバンダ村はあった。道中で何度も、ヌーの群れに遭遇した。こんな群れが、いつかのロバンダ村を駆け抜けたのだろう。なんとワクワクすることか。でも、岩井さんによれば、野生動物保護を掲げた取り締まりはどんどん厳しくなり、いまやヌーを獲ろうなんて誰も考えられないとのこと。ロバンダ村に隣接する国立公園の集客力の凄まじさと、その恩恵を多少なりとも受けているであろう村の潤った様子を見れば、それもまた一つの道なのかもしれないとは思う。でも、よく考えれば、いま国立公園となっている土地は、そんなに遠くない過去には、地元の人々がその自然の恵みを存分に活用しながら生きていた場所だったはずだ。いまや、ヌーの群れは、豊かな国からやってきた人々がつかの間のバカンスの思い出にとカメラを向けるためのものになってしまった。納得できない気持ちは、ずっと続いた。
ようやく到着したロバンダ村で、私たちが宿泊させてもらうことになったのは、美しく整えられた豪奢なお宅だった。家主は、立ち上げ間もないころのアフリック・アフリカが学費を支援した青年だという。たしか、私が彼の名前を初めて岩井さんから聞いたのは、彼がまだ中学生くらいのころではなかったか。その彼が、やがて村を離れ、進学し、今ではエリートとして大活躍中だという(エッセイ「今どきのキャンパス事情ーアフリカの大学生の生活」)。アフリック・アフリカ立ち上げの前夜に私たちが語り合っていた夢は、こんな形で実を結んだのだ。彼だけではない、ロバンダ村滞在中、岩井さんからこれまで何度も聞いていた人たちにたくさん、会うことができた。岩井さんがずいぶん前に書いたエッセイ「足を向けて寝る」には、お世話になったうちの娘たちと、ひとつのベッドに頭と足を交互に違えて、3人で寝ていたという話があって、なぜかずっと忘れられなかったのだけれど、そのおうちにもお世話になった。まるで物語の中に入り込んだような不思議な気持ちだった。
一方で、ゾウによる被害は、養蜂箱を設置した時よりもより深刻になっていて、ロバンダ村や近隣の村落の人々は、その対策にさらに熱心にならざるを得ない様子だった。短い滞在だったけれど、私たちはゾウの被害の大きさと、ゾウ害対策の創意工夫をいたるところで目の当たりにした。養蜂箱作戦のときよりも前からずっと、岩井さんとこの地域の人々は試行錯誤を続けてきたのだ。国立公園を舞台にした観光がますます華々しく盛り上がる影で、この人々は、その負の影響をずっと引き受けてきたのだ。その理不尽さに憤りを覚えるのはもちろんだが、長年に渡って闘ってきた人たちのチームワークの良さは目を見張るものがあった。地域の人々の組織力もさることながら、彼らと岩井さんとの信頼関係や連係プレーのすばらしさは、同じアフリカでフィールドワークを続けてきたものとして、うらやましくさえ思えた。
ロバンダ村滞在中、私たちは、なんどとなく感謝の言葉をかけてもらった。だけど、ロバンダ村を訪れて、いっそう明らかになったことがある。それは、20年をこえて、支えられ、勇気づけられ、深くものを考えるきっかけをもらっていたのは、むしろ私自身のほうだったということだ。自分自身がフィールドとする地域だけでなく、岩井さんやアフリック・アフリカを通して、訪れたこともなかったロバンダ村に親しみを持ち続けてこられたこと、そしてそこを訪れることができたことは、私自身にとって間違いなく幸福で、感謝すべきことだった。