続・凄腕の鍛冶屋―「つながる」

近藤史

2005年にアフリカ便りで紹介した「凄腕の鍛冶屋」を覚えているだろうか。トタンを打ち延ばした板を張り合わせてパラボラアンテナを自作した、あの鍛冶屋だ。彼の他の作品もいつか紹介したいと書いたまま、20年ちかく経ってしまった。アフリック20周年のこの機会に、さまざまなつながりを手がかりとして、彼との出会いを綴っておきたい。

「面白い鍛冶屋がいるから会いに行かないか」
友人からそう誘われたのは、タンザニア南部高地で3度目のフィールドワークに従事していた2004年のことだった。当時、農村でホームステイしながら調査をおこなっていた私は、1ヵ月にいちど、最寄りの町ンジョンベにでて1泊の骨休めをしていた。その頃、固定電話もなかった村にいきなり携帯電話が入ってきたのだが、まだ電話機本体が高価であったことと、村の中でも標高の高い丘のてっぺんに立たないと電波に接続できないことから、私は携帯電話を持っていなかった。したがって、元気に暮らしていることを実家の両親にしらせるため、町の電話屋を利用していたのだ。せっかく町まで出たからにはと、村では手に入らないアルカリ乾電池を買い足したり、ビスケットやチョコレートを買ってこっそり食べたりしていた。そのとき自宅に泊めてくれていた友人のNさんから、あるとき上述の誘いを受けた。

Nさんは、日本から青年海外協力隊で派遣され、セカンダリー・スクールで理数科教師として働いていた。目に見えないエネルギーや物理法則についてどう教えるか悩んでいた折に、近隣住民の伝手で、電気も水道も自前で調達する鍛冶屋に出会ったのだという。その頃のンジョンベは県庁所在地の町といえども国の系統電源網に接続されておらず、郊外のバイオマス発電所を唯一の電源とした独立送電網によって中心市街地のみ電化されていた。この発電所は、英国植民地期に国策会社として創業されたタンニン製造会社「タンザニア・ワトル・カンパニー(TANWATT)」が社内の産業電力需要をまかなうために運用しており、余剰電力を市街地に供給していた。水道網はどこが整備したのか不明だが、中心市街地しかカバーしていないところは送電網と同様だった。くだんの鍛冶屋は、そうしたインフラ網の外に居を構えていたのだが、ルフジ川支流の小渓谷にお手製のポンプと水車を設置して、水にも電気にも困らない生活を送り、副業で真夜中まで照明と音楽の絶えない酒場を経営している。科学の法則と技術、実社会の繋がりを教えるのにぴったりだということで、生徒たちを連れて社会科見学に出かけ、大好評だったそうだ。

ふだん日本で暮らす私にとって、電気や水道水は自然資源に由来しているものの非常に高度で精密な技術や装置を経て消費者のもとに届けられるという思い込みがあり、あまり工業の発達していないタンザニアでそれらを個人が独力でまかなうというのは想像もつかなかった。訪問の誘いに一も二もなく同意したものの、本当にそんなことが可能なのかと半信半疑でついて行った先で、度肝を抜かれた。酒場で鍛冶屋とおちあい、まずは現場へということで谷底にむかう。上流の取水口を見せてもらい、そこから滝の横をくだっていくと、ザーザーと流れおちる水音に混じって、シュッ、コーン!シュッ、コーン!と軽快な音が聞こえてくる。何の音かと不思議に思っていたら、滝壺の縁の岩場に設置された水撃ポンプの稼働音だった。鉄管を加工し、廃タイヤから切り出したゴム弁を取りつけた、シンプルな構造の水撃ポンプ。そこに接続された塩ビ管(水道管)は、斜面を這いのぼり木立の向こうへ消えていく。そこからさらに川を下ると、素掘りの水路から引いた水を受けて水車が轟々と回っていた。トラックのタイヤホイールを再利用したプーリーで発電機に伝えられた動力が、私には仕組みのわからない装置と手巻きコイルを経て電気に変換されて、電線で送られているという。自然現象と人間の水・エネルギー需要をつなぐポンプと水車のリズムから、地球の脈動がダイレクトに伝わってくるようだった。

電線と水道管をたどると、いずれも鍛冶屋の住まいへ繋がっている。どの部屋にも照明が灯り、リビングにはテレビがあって冒頭のパラボラアンテナで受信した衛星放送をみられる。住宅の一角には100リットル容の貯水槽(黒いポリタンク)が設置され、谷底から数十メートルはあるだろう高低差をものともせず常に水が流れ込み、オーバーフローした水は庭畑に流れ込むようになっている。貯水槽から住宅内外に炊事用、浴用、洗濯用、水やり用と複数の水栓へ配水され、どの蛇口もひねると勢いよく水がでた。

彼は、古くからたたら製鉄をして鍬や鎌、包丁といった農具と生活道具をつくってきた鍛冶師の家系に連なる。あるとき白人のワークショップ(工房)で水撃ポンプの原理と技術を習得し、その後、入手しやすい廃材を用いて改良を重ねているという。また、近隣の教会で導入された発電用水車の設置や修理を請け負ううちに、見よう見まねで水車の自作に成功したという。最初の出会いから20年。口コミで顧客を広げていった彼は、息子とふたりで鍛冶屋を営むようになっていたが、この2月に亡くなったと報せをうけた。限られた材料をいかす工夫の数々を楽しそうに語る彼にもう会えないのはとても寂しい。このエッセイを捧げ、ご冥福を祈りたい。近年は、県内の農村一帯で林業景気が興隆して経済的な余裕ができたことで、水車や水撃ポンプの需要が高まり、あっちの村へこっちの村へひっぱりだこだった。機器の製造・販売に加え、現場での設置にかかわる土木工事の差配まで幅広く手掛けて、とくに息子の方はそうした設置作業に忙しく活躍しているから、しっかりあとを引き継いでくれるだろう。最近、息子は土木工事先の僻地農村でアボカドやジャガイモの栽培にも着手し、村と町の二拠点生活をはじめた。その暮らしについても(アフリック30周年を待たずに)報告したい。