大門 碧
同じアフリカならウガンダ出身の夫も過ごしやすいかもしれない。子どもを抱えての求職活動のなかで、南部アフリカのザンビアでの仕事を受けたのが5年前。ザンビアに夫を呼び寄せ子どもらと3年半暮らしたのち、夫の母国のお隣、東アフリカのケニアへの転居が叶ったのが2年前。しかしそこでの新生活もつかの間、新型コロナ感染症蔓延の影響を受けて夫とともに家族全員で日本に「一時退避」することになった。
ザンビアやケニアでは時々台所に立っていた夫は、日本では食べる専門と化した。納豆と生魚以外は積極的に口にする夫は、私が用意する和風と洋風が混在する料理を前に、携帯で写真を撮っては、使っている食材から幼少期に長く過ごしたウガンダの村に思いをはせた。シチューにぶなしめじを入れたときは、形の似ているきのこの話になった。その村では庭に束になって自生しており、落花生を薄皮ごと粉砕した粉をつかってつくるソースと合わせて食べると、そのきのこは牛肉よりもずっとおいしいらしい。ミニトマトを食卓に出すと、「村のなかでも町から離れた地域でこれは食べられている。庭に勝手に生えるので、これは貧しい人の食べものとみなされていたんだ。」などと言ってくる。日本のりんごを褒めたたえる一方で、いかに自分が果物を食べて幼少期を過ごしたかを楽しげに話しもした。「マンゴーはそこらじゅうになっていたので、採り放題。友達と食べ続けて、お腹をゆらすとマンゴーの水分でお腹から、たぷんたぷんと水の音がしたんだ。」と腹をゆるゆるとまわして見せる。スーパーマーケットで買ってきたカボチャの煮つけを出すと、ウガンダのカボチャも最高なんだという自慢話。この煮つけにはたぶん砂糖が入ってるよ、と伝えると、ますます得意げに、「ウガンダのカボチャは砂糖入れなくても、十分甘いんだ!」との返答。かつて夫の村に近い別の村を訪問したときに出された蒸しカボチャはさほど甘くなかったと言い返してみると、「カボチャにも種類がある。」と即答。日本に来ても飲み続けているコカ・コーラのペットボトルを手にしたときは、「近所にコーラが大好きな爺さんが住んでたんだけど、夕方になるといつもそこの孫が空き瓶——ほらそのころは、村にペットボトルなんてなかったからね。——を持って、コーラを買いに行く姿を見たなあ。」と目を細めた。
帰国が4月はじめだったために取得できた「特別定額給付金」。現金支給の話に、夫も目を輝かせるので、彼の欲しいものを聞くと、映画を見るためのパソコンとのこと。半信半疑で安いパソコンを購入したところ、欧米で制作されている映画を、なかでも母語のガンダ語で台詞や状況の解説が吹き込まれたバージョンを中心に、毎日のように見るようになった。映画、そんなに好きなんだね、と何気なく問うと、かつてビデオ小屋で働いていたことを話し出した。ビデオ小屋とは小さなテレビで映画を上映するウガンダ庶民のための「映画館」だ。たくさんの人がぎゅうぎゅう詰めに狭く暗い部屋に入り、ひとつのテレビに見入る。私も行ったことがある。ふっと観客の汗のにおいがよみがえる。夫は、そこで上映する映画の選択および再生、入場券の販売、さらにはビデオ小屋の経営者の洗車などを泊まり込みで引き受けていたとのこと。安い給料でも映画が好きだったから続けられたという。このパソコンに加えて、夫はどこにでも持っていけるモバイル型のスピーカーも所望した。そのスピーカーが届いてからというもの、皿洗いをするときは、スピーカーを肩にかけて物々しく登場、おもむろに足元に置いて、音楽を流して皿を洗うようになった。時にはそのスピーカーから大音量で音楽を流しながら目をつぶって身体を上下に揺らして汗を流して踊ることもあった。横には仮住まいのマンスリーマンションにもとからあった姿見。ウガンダでクラブに行ったときは、基本的に鏡を見ながら自分の踊りを見ていたからとのこと。確かにウガンダのクラブの踊り場は鏡で四方を取り囲まれているが、それは会場を広く見せるためだと思い込んでいた。そうか、自分の踊りを見ている人もいるのか、へえ、そういうものかと、また夫の、ウガンダ人の、新しいことを知る。
日本に退避してから9か月後、夫はパソコンとスピーカーを抱えて、ひとりウガンダに帰った。きっかけは、育ての親であった祖母の葬式である。一番世話になったと感じている人のお別れに行けない事態に「行きたい場所に行けないってどういうことだ」と声を荒げた。世界中の人が同じことを思っているときに、今さら何をと思ったが、不要不急かどうかの判断を毎時の行動で問われる昨今、当然の欲求として「こうしたい」と言えることは、呆れを通りこしてむしろうらやましかった。結局、その葬式への出席は耐えて、親戚から共有された動画を眺めるしかなかったが、その翌月、ウガンダの大統領選挙に向けて、彼は日本を去った。
それからの日々、同居していた夫への気遣いや遠慮、家事育児分担についての葛藤はなくなり、私は心穏やかに過ごすことができた。ただしばらくすると、なにかもの足りない気持ちになる。単純に夫が恋しい、ということだけではない気がした。ふと彼の言葉を思い出す。以前テレビで、自殺した妹のいる男性が週末だけ女装で過ごしているというドキュメンタリーを見ていたときのことだ。私の横で女装している男性にじっと見入る夫に番組の内容を訳して伝えると、「わかる。」と言い始めた。「こういうことが日本で起こるのはわかる。アフリカではタクシー乗り場とかで話す相手がいたり、友達の働いているところを訪ねて話し込んだり、そういうことができる。でも日本ではそういうところがない。ずっと家にこもってばかり。だからこんなふうに複雑な人が出てくる。アフリカではこういうことは起こらない。」女装への否定的な思いはともかく、夫が言うように、たとえコロナ禍ではないときでも、日本では友人の職場や、もしくはタクシー運転手の休憩場所にタクシーに乗るわけでもなく立ち寄って、ただおしゃべりを興じるなんてことはなかなか起こらない。私がかつてウガンダの首都カンパラを歩き回っていた時、数々の場所で呼び止められて顔見知りが増えるうち、おしゃべりしたり、ただ時間をつぶすだけの場所が増えていったことを思い出す。ぼーっとそこに座っているだけでもよしとされた店先、街角。もしもこういうちょっとしたたまり場に用事が特になくてもそこにいること、それ自体が、このコロナ禍で許されないものになり、不要不急の外出やおしゃべりが禁じられたなら、ウガンダなどのアフリカでは人間をやめろという事態かもしれない。
おそらく私は、このおしゃべりの相手を、おしゃべりの場を、ひとつなくしてしまったようだ。今、日本では不要不急かどうかを問うことなく、一緒にいることができるのは、同居する相手だけになってしまった。私の場合、ふんわりとことあるごとに感じていた、アフリカで過ごす幸せは、普段の生活において、いろんな場所でいろんな人と出会って何とはなしに話する、ということから来ていたように思う。それが急に、その相手が夫と子どもたちだけになってしまった。一方、夫はそれまで外で過ごしていた時間、家にいるようになったため、私は夫と話す機会が増えた。おかげで私は「ステイホーム」しながらも、なんとか他者とのふれあいを持続する恩恵にあずかった。それは、私にとってはアフリカで過ごす醍醐味につながるものだ。一緒に過ごすことで、必要とする情報や会話以外に出てくるこまごました話題、言葉、息づかい、それがとても大事。だが残念ながら、それは一人の相手だけでは満足できないようだ。それは私も、夫も。
一時退避帰国から1年経った4月、ケニアの首都ナイロビに子どもたちと戻ってきた。夫もウガンダから合流した。ケニアではマスクを着けていないと罰金が課されるため、ナイロビでは外にいるほぼすべての人びとがマスクをして過ごしている。しかし他者との基本的なかかわり方は変わらないようだ。街角にたむろする人びと。マスクを着用できない幼い息子を、臆するでもなく抱いてくれる人びと。私に「ニーハオ」と挨拶する道行く人びと。「これはスワヒリ語でなんて言うの?」という私の質問に丁寧にこたえてくれるタクシー運転手や店員。外出時間は減ったが、それでもウガンダ人コミュニティなど訪ね歩く場所がある夫。———不要不急の大事なこと。知っている人や知らない人との取るに足らないおしゃべり。他者と生きるとはこんなにも複雑でこんなにも刺激的であったのかと、「ステイホーム」時代に改めて気づく。隣の庭から鶏の鳴き声、雨季終わりのひんやりと肌寒いナイロビの朝である。
*このエッセイは「会報 アフリック・アフリカ 第18号」からの転載です。