「産んだだけよ」といえる日が、いつか。—「泣く」

丸山 淳子

ザンジバルには行ったことがない。とても美しい場所だという話はよく聞く。海が青くて、空も青くて、格調高い街並みが広がり、色とりどりの服を着た人たちが行きかっている。そんなイメージを持っているけれど、本当のところを、私は知らない。

そんなザンジバルの、とある家の庭先で、ゴザのうえにごろりと寝ころぶおばあちゃんのことを、育休中の私は何度となく思い浮かべていた。夕暮れに、とくに理由もなさそうなのに、ちっとも泣きやまない娘を一人であやしながら、そのおばあちゃんのことをずっと考えていた。娘と私しかいないマンションの一室で、その窓の向こうにみえる空の、さらにそのずっとずっと向こうにあるはずのザンジバルには、あのおばあちゃんがいる。一度も会ったことはないけれど。

自分が娘をもつようになるとは想像もしなかったもう15年以上も前のこと。「アフリカ便り」に寄せられた「子供とは、泣くものである(タンザニア)」というエッセイを、私は繰り返し読んでいた。そのころ、アフリックでは『アフリカで育つ』というエッセイ集をまとめていて、このザンジバルを舞台にしたエッセイは、そこに掲載するものの一つに選ばれていた。編集メンバーのひとりだった私は、このエッセイを担当しながら、つくづく良い話だと思っていた。赤ん坊が泣くことにだんだん動じなくなる筆者の様子も良いし、なにより、最後のおばあちゃんが良い。10人も子どもがいるのに「私は産んだだけだもの。あとは、放っといたら育っただけよ。」と言ってのけるのだ。

当時すでに、このエッセイは印象的なものだった。でも、それが、うんと鮮烈に私に迫ってきたのは、自分が娘を産んでからのことだった。赤ん坊は泣く。あたりまえだ。そんなこと、私だって、知っていた。産む前から知っていた。だけど、泣き続ける娘を前にすると、うろたえた。そして、娘の泣き声に耳をふさぎたくなる自分にとまどってもいた。ああ、どうしたら、あのザンジバルの母たちのように、おおらかな気持ちになれるのだろう。

私の調査地であるカラハリでも、こんなふうに追い詰められた気持ちになったことはなかった。あそこでは、子どもを産んだことなどなくても、赤ん坊の世話は当然のようによく任された。背中に赤ん坊を括り付けて、調査をしていたときもあった。だけど、赤ん坊が泣いても、まぁいいや、と思えたし、そもそもちっとも泣きやまずに困ったというような記憶もない。なにせ、赤ん坊がちょっとでもぐずると、すぐにみんな集まって、なんのかんのとかまってやるのだ。あっという間に、赤ん坊はすっかりご機嫌をなおす。赤ん坊の母親は、その様子を気に留めているふうでもなかったし、そもそも授乳のとき以外は、赤ん坊のそばにいないことだって多かった。まさに「放っといてる」状態だったのだ。

写真1 子どもに、ごはんを食べさせるのは母ではなく、訪ねてきたおばさん

だから、わたしは、赤ん坊なんてすぐに泣きやむし、母になることはそんなに大変なことでもないと、勘違いしていたような気もする。あるいは、しょせん、ひとときの子守り役に過ぎなかったから、気楽な気分でいられただけなんだろうか。もちろん、当然、カラハリでだって、ザンジバルでだって、お母さんたちは、いろいろな気苦労を背負っているはずで、彼女たちには、そんなことは見せない強さがあったということなのかもしれない。

写真2 ティーンにとって、親戚や近所の子どもの世話は、ごくありふれた日常

その後、泣いてばかりだった私の娘は、みるみる成長し、つたないながらも、いつのまにかどこかで覚えてきた言葉で、自分の気持ちを説明するようになった。一方の私は、母として成長を遂げた気配もなく、子育てについての不安はつきない。でも最近になって、「私は産んだだけだもの。あとは、放っといたら育っただけよ。」という気持ちが、ほんの少しだけわかってきた。結局のところ、母なんて、産む以外、たいしてなにもできないということなのだ。子は子なりに育つ。そう思うと、肩の力がぬけるような、でも、覚悟が決まるような気がする。行ったことのないザンジバルの、会ったことのないおばあちゃん。15年以上も前に、一篇の「アフリカ便り」を通して知った彼女の姿は、母としてこれから長い道を行く私に、いま一層くっきりと見える。いつか、私も、ゴザの上でごろりと寝転んで、「産んだだけよ」と言おう。いつかきっと。