服部志帆
私が調査の対象としてきたカメルーンの「バカ」は、長いあいだ狩猟や採集、漁労を生業として暮らしてきた人々である。彼らの暮らす熱帯雨林は、ゴリラやチンパンジー、ゾウなど日本でも動物園でおなじみの哺乳類が野生状態で暮らしており、このような動物たちが狩猟の対象になってきた。しかし、捕獲される動物の多くはウシの仲間であるダイカーである。ウシと言っても、見た目はどちらかというと、シカに似ている(写真1)。バカによると、ダイカーは猫よりは低音の「ミャーオー」という声を出し、この声を真似ておびき寄せ、間違えてやってきたダイカーを槍で仕留めるという。ダイカーはその肉や内臓が食用になるほか、毛皮はなめしてポーチの材料や太鼓の皮、マットにもなる。食材として胃袋を満たすだけでなく、バカの物質文化の一端まで担う便利な動物なのである。
写真1 :ピーターズ・ダイカ―
たまに捕れて、バカの胃袋も心も満たすのは、カワイノシシである。歌舞伎役者のような派手な顔をしている。黄金の毛皮に覆われた姿は、高貴な雰囲気を醸しだしており、まるで森の貴族のようである。カワイノシシの肉には油がたっぷりのっており、この油のことをバカ語で「ミタ(mita)」という。バカは、カワイノシシの肉は「ミタ」が多く、「ロコロコ(lokoloko)」であるという。「ロコロコ」とは、「甘い」という意味である。まったく同感である。大学院生のとき、長期間にわたって森で調査していたころ、カワイノシシが捕れたと聞くと、思わず小躍りしたくなるほど、気持ちが盛り上がった。今でも、カワイノシシの写真を見ると、森の果実を食べてすくすくと育ったカワイノシシの「甘い」肉を思い出し、よだれが出そうになる。
残念ながら、日本でおなじみの熱帯アフリカの哺乳類はめったに捕れない。私が相伴にあずかったのは、ゾウくらいである。私が調査をしている集落では、ゾウが捕れたことがなかったが、近くの村のバカが仕留めたことがあり、背負い籠いっぱいの肉が調査村に運び込まれてきたことがあった。サバンナに生息するゾウに比べると、熱帯林に暮らすゾウは一回り小さいと言われているが、それでも大きければ5000キログラム以上になる。一匹仕留めれば、集落で食べきれないほどの肉がもたらされ、切り分けられた肉は日持ちするようにせっせと燻製にされる。私の調査村に運び込まれてきた肉は、一週間ほど前に燻製にされたものであった。燻製肉は独特の味わいがあって美味しいが、ゾウの肉はなによりもそのボリュームでバカの胃袋を満たす。
だが、ゾウはバカにとって恐ろしい存在でもある。二日かけてやっと到着する遠く離れた森にしかいないので、普段は出会うことがないが、男たちがダイカーの狩猟に出かけたときや家族そろって一年に一度長期間のキャンプ生活をするときに出会うことがある。森でゾウの気配を感じた時や夜キャンプでゾウの足音を聞いた時、バカは震え上がるという。私はゾウに遭遇したことがないが、長期間のキャンプ生活に同行した時に、森のなかで小木がなぎ倒されて出来上がったゾウの道やフン(写真2)を見たことがある。数メートルに及ぶ道やグレープフルーツほどのフンを見たときは、森の王様の存在を感じてぞわぞわした。
写真2:ゾウのフン
ゴリラもまたバカにとって恐ろしい存在である。森に出かけたときに、草陰にひそんでいたゴリラが足の皿に噛みつき大けがをしたという男性の話を聞いたことがある。草食で穏やかなイメージのあるゴリラであるが、森でハンターに遭遇した際は、自分の身や群れを守るために、会心の一撃を加えることがあるのだ。ゴリラが加えるのは一撃だけで、攻撃が続いたという話や殺されたという話は聞いたことがないが、草陰から飛び出してくるゴリラを想像すると、とても一人で森歩きなどできないという気分になる。
バカと一緒に暮らしていると、ゴリラは会話の中にしばしば出てくる。それは、森のなかのゴリラではなく、村に住むゴリラ、つまり農耕民のことである。農耕民はバカの集落に隣接して暮らしており、両者は経済的に相互依存関係にある。農耕民は毎朝毎夕のようにバカの集落にやってきて、労働力となるバカの確保をおこなう。農耕民が求める農作業や家事労働をおこなうと、農作物や酒が報酬として渡されるのであるが、確実にバカを確保するために先払いで農作物や酒を渡す農耕民もいる。バカに対して依頼をする農耕民の態度は、お願いするというよりは命令口調で、威圧的な雰囲気をともなう。バカは、そんな農耕民を森で堂々と振る舞いバカに一撃を加えるゴリラに似ているという。集落を訪れたあと、バカは農耕民をゴリラにたとえ、身ぶり手ぶりで農耕民の真似をしては、みなで大笑いするのである。
バカはゴリラのほかに動物を人間に例えることがある。バカがバカをゴリラにたとえることはないが、鼻の穴が小さい人をヒョウ、踊りのときにしきりと首をふる仕草をする人をダイカー、たくさん食べる人をカワイノシシ、野生のヤマノイモを見つけるのが得意な人はヒヨドリというように。バカはヒョウの小さな鼻、ダイカーの首を振るような動き、カワイノシシの食欲、ヤマノイモのツルをくわえて飛びヤマノイモの所在を知らせるヒヨドリの姿や行動を人の特徴になぞらえて、動物名をニックネームとして与えているのだ。こんなふうに、バカたちは動物を人のたとえに用いるのであるが、私は彼らにとってどのような存在なのだろうか。
ダイカーのように便利な存在ではないだろうし、カワイノシシのように美味でもなく、ゾウのように多くの肉をもたらす存在でもない。ゾウやゴリラのように危険な存在ではないような気もする。鼻の穴が小さいほうではないし、自分では踊りの時に首を振る仕草をしていないと思っている。カワイノシシのようによく食べることはあるが、毎回そうであるかというとそうではないし、ヤマノイモを見つけるのは得意などととても言えない。調査地での自分のふるまいを思い出すとき、どうしても「ウォシリ(woshiri)」という単語が思い浮かんでしまう。「ウォシリ」は刺しバエの一種で、村のなかでじっとしていると、いつの間にやってきてバカや私を煩わせる。厄介なことに、肌が露出している部分にとまり、ハリを皮膚から差し込んで血を吸う。ウォシリに噛まれると、痛痒く、噛まれた皮膚が腫れ上がる。私はさすがに彼らから、血を吸い取るようなことはないが、知識を吸い取ろうと彼らのまわりを朝から晩までぶんぶんと飛び回っている。私が知識を吸い取ったあとは、その不快感がバカに残っていないともいえない。
あまりにも自虐的ではないかと思う人もいるかもしれないが、自分を「ウォシリ」と考えるには、ほかにもまだ根拠がある。私は、バカと植物の関わりを長い間調べていたのであるが、その際にバカと森を歩き、実際に植物を見ながら、聞き取りを行っていた。植物の名前、利用法、知識を教えてくれた人とその理由などを100種類近くの植物について聞き取るのである。私が問いを投げると、まるで電球が灯るように即座にぱっと思い出して答えてくれるバカもいれば、一点を見つめてゆっくり思い出すバカもいるし、思い出そうとせずすぐに「わからない」と答えるバカもいる。今から思うと、調査されるのは初めてで、これまで植物についてこれほど詳細に聞かれることもなかったバカにとって、調査体験は多くの戸惑いがあったことだろうと思う。そんなバカたちをしり目に、人類学の勉強を始めたばかりであった当時の私は出来るだけバカの頭のなかにある知識をくまなく取り出して記録したいという野心をもっており、しきりと「シミサ (simisa)」を繰り返していた。「シミサ」は、「思い出して」という意味のバカ語である。この言葉を何度使ったかわからないし、合計2年近くに及ぶこれまでの調査のなかで、この言葉をとんでもないくらい使ってきただろう。下手をしたら、挨拶以上に頻繁に使っていたかもしれない。
「思い出す」というのは、なかなか集中力のいることである。とくに日常生活の知識は尋ねられても、忘れていることが多い。たとえば、私たちが野菜についてどんなふうに料理するのか聞かれても、自分が頻繁に作っているレシピならいざしらず、聞き取りのタイミングと季節が異なる時期の利用法は、思い出さないこともあるだろうし、頻繁に使っているレシピであっても当たり前すぎてすべて思い出さないこともあるだろう。「思い出す」のはそんな簡単なことではなく、知識を網羅的に記録するなど、とうてい出来るものでもない。にもかかわらず私の野望に付き合わされるバカたちは、膨大な植物についてこまごまと聞かれ、答えないと「思い出して」と言われる。なんと忍耐力のいることだろうか。
植物調査のことを思い出すと、申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、さらに申し訳ないことに私が「思い出して」と言っていたのは、植物に関する聞き取りのときだけではない。私は、朝から晩まで多くの時間をバカと一緒に行動し、根掘り葉掘り話を聞く。朝靄がまだ晴れない時間にバカの家に行っては、朝ご飯の内容やその日の予定について聞き、日中の植物に関する聞き取り調査を終えた後、夕方は、集落にバカが持ち帰った収穫物をバネばかりで計り、「何をして得たものか」、「農耕民からもらった場合は誰からもらったのか」など質問をする。そして、夜は夕飯の内容やその日の行動について聞いてまわる。夜踊りが行われて精霊が出てくるともなれば、精霊についてまた質問を始める。日常生活の聞き取りは、その日の行動に関するものが多く、バカが忘れていることはほとんどないのであるが、話は過去にさかのぼることもある。そんな昔話に話題が及べば、私の定番のフレーズ「思い出して」が連呼されるのである。
人類学者の性ながら、私は朝から晩まで質問の荒らしを調査村で吹かせ続けていた。ウォシリは日が昇らないと出てこないし日が沈むと去ってしまうが、私は太陽の動きなどおかまいなしで、バカにまとわりつくので、ウォシリどころではない。村の家でのんびりと過ごしたいバカにとって、私は日々の安穏をかき乱す存在であったにちがいなく、私が刺しバエである理由はここにあるのである。幸い心優しいバカからは、今のところ「ウォシリ」と言われたことはないが、いつか「ウォシリ」と言われてしまうかもしれないし、「シミサ」というニックネームがつけられるかもしれない。コロナ禍が去ったにもかかわらず、私はなかなかバカのもとを訪れる機会がもてずにいるが、次回行ったときは、「私はどの動物みたいなの?」と聞いてみたい。