おばあちゃん、もうすぐタンザニアへ帰ります(会報第18号[2020年度]巻頭言)

溝内克之

「マラハバって言ってくれたおばあちゃんやろ。」

4歳の長男に、タンザニアのおばあちゃんの訃報を伝えるとそう応えた。「マラハバ」とは、年長者への挨拶「シカモー」への応答の挨拶だ。2年ほど前、初めて私の調査村を訪れた彼は、恥ずかしそうにホームステイ先のおばあちゃんに「シカモー」と挨拶した。それにおばあちゃんが「マラハバー、私の孫よ。違うわね。ひ孫ね」と優しく応答してくれ、息子が村の家族に受け入れられたと感じた瞬間だ。その二人の様子を今でも鮮明に覚えている。2004年、キリマンジャロの山間部の村で調査を開始した私は、偶然と偶然が重なりおばあちゃんの家族に迎えられた。村ではおばあちゃんと一緒にご飯を食べ、ビールやバナナの酒を飲み、おばあちゃんに村の言葉や家畜の世話を教わった。おばあちゃんは、村での生活に欠かせない存在だった。

訃報を受けてすぐにアフリックのホームページを開いた。おばあちゃんとのやり取りを書いた「アフリカ便り」を読み返したくなったからだ。都会に暮らす子供たちや孫たちを心配するおばあちゃん、牛やヤギの世話をするおばあちゃん、村の古い歌をうたうおばあちゃんと再会できた。さらに昔のエッセイを読み返しているとあることに気が付いた。それは私自身の変化だ。20代の私は同世代の若者とディスコに行ってみたり、暴れる酔漢を取り押さえたりしている。また露天商の若者の夢に付き合ったりもしている。30代になった私は、「妹」の人生の岐路に向き合い、そしてタンザニアの家族が準備してくれた結婚披露宴で主役となっていた。40代に突入した私は、「若者だった僕ら」というタイトルで私と同じように腹が出てきた同世代の友人たちとの10数年の交流をエッセイにし、アフリカ便りではないが、この巻頭言においてタンンザニアの家族の一員となった息子を登場させ、おばあちゃんとの最初で最後の挨拶の思い出を書くことになった。大学院生だった私は、いつのまにか「大人」になり、タンザニアの弟や妹たちから相談を受けるようになり、タンザニアの家族の行事で中心的な役割を担うようになっており、今は、おばあちゃんの墓の造成の計画について同じ孫世代とSNSでやり取りをしている。

アフリカ便りは、アフリック設立初期から続く活動の一つだ。各メンバーの調査地での人々との交流から生まれる悲喜こもごもの体験が記されており、各メンバーがアフリックの活動を通じて伝えたいことが凝縮されている活動だと私は思っている。しかし、威勢のいい言葉でアフリカへの思いとか理想が書かれているわけではなく、アフリカの日常が描かれている。また、アフリカの「今」が切り取られただけではない、定点観測から得られた知見が織り込まれ、メンバーの人生の変化と現地の人々との関係の変化も描かれている。古株のメンバーの熟成した現地の人々との関係から生まれる濃厚なエッセイだけではない。毎年のように加わる新たなメンバーの新鮮なエッセイも読む事ができる。アフリカをテーマにしてこんな重厚なエッセイが読めるサイトが他にあるだろうか。

2021年6月2日、この巻頭言をドバイの空港で書いている。日本でのしばしの休暇を終えて、単身赴任しているタンザニアへ帰るため、トランジットの時間を過ごしている。いつものトランジットであれば「もうすぐタンザニアだ」という高揚感を感じているのだが、出発の前日におばあちゃんの訃報が届き、ぽっかり穴が開いた感じだ。いつもと違うのは私だけではない、空港全体の雰囲気も違う。いつもであれば多くの人で賑わう空港は閑散としており、「空港施設内でのマスクの着用は義務です」というアナウンスが流れている。昨年から続く「新型コロナ・ウイルス感染症」は、アフリカや日本を含め世界中の人々の日常を大きく変えただろう。残念なことに受け入れがたい多くの死をもたらしたし、貧困の拡大を招き、不平等の現実を浮き彫りにしたかもしれない。私自身「もうタンザニアへ帰れないのではないか?」と嫌な考えに毒されることもあった。しかし、改めてアフリカ便りを読み返し、形や距離が変わろうとも、会えない時間が長くなろうとも「これも人生の一部さ」という気分になっている。どのような変化があろうとも「アフリカ便り」に記されてきた人々との交流、すなわちアフリックの活動の基礎は変わらない。同時代を生きるアフリカの人々と進んでいくだけだ。

おばあちゃん、もうすぐタンザニアへ帰ります。

*このエッセイは「会報 アフリック・アフリカ 第18号」巻頭言からの転載です。