揚げたてのドーナツ:アフリック・アフリカ4年目に寄せて(会報第4号[2006年度] 巻頭言)

丸山 淳子

暑いカラハリの真っ昼間、めずらしく1人でぼんやりしていた私に、突然、小さなお皿が差し出された。お皿の上には揚げたてのドーナツが4つのっている。さっきまで、甲高い歌声を響かせながら、跳ねまわっていた3人の少女達が、はにかみながら私のまえに並んでいた。そのなかの1人、私が長年お世話になっている家の娘が、「もらってきてあげたのよ。たべなさい」とお姉さんぶって、すこしぶっきらぼうにいう。初めて会ったとき、私を見るたびに怯えて大泣きしていた彼女。やがて私に慣れてきても、年かさのお姉ちゃんたちに仲間に入れてもらえなかったとか、小さい弟にだけ牛乳をもらったとか言っては駄々をこね、泣いてばかりいるような子だった。

そんな彼女が、いつものお母さんの言い方をまねている。「ちゃんと食べなさい。おなかがいっぱいになったら、残せばいいからね」。4つのドーナは明らかに、私たち4人にひとつずつなのに、その全部を私に渡すと、少し離れたところで、ドーナツになんかに関心がないかのように人形遊びをはじめた。一緒に食べようよ、と声をかけ、よくよく聞けば、彼女たちは、ドーナツを揚げているお店に行って、お金は持っていないけれど、私がひとりぼっちでいるからと言って、ドーナツを分けてもらってきたのだという。あんなにも泣き虫だった彼女は、いつのまにかブッシュマン流のそこはかとない優しさを身につけた少女に成長していたのだ。

思えば、7年前、初めてカラハリにやってきたときから、ブッシュマンの友人達は、遠く日本からきた私を1人にしないように、おなかを空かせないように、といつも気にかけてくれていたのだ。そして、そんな大人達に囲まれ、同じような思いやりをもった子ども達が育ってきている。揚げたてのドーナツは、そうしたたくさんの気持ちが積み重なった結果、私に差し出されたのだ。アフリック・アフリカのメンバーの多くが、こうした幾人ものアフリカの人々のさりげない優しさや気遣いのなかで、日々を安心して居心地よく過ごしてきたことだろう。だからこそ、アフリック・アフリカの活動の原点にあるのは、そんなアフリカへの、実体験に基づいた敬意と感謝なのだと思う。

アフリック・アフリカは、今年で4年目に突入した。昨年度、「日々のアフリカ」と題した毎月のエッセイはついに50作目を超えた。アフリカ先生の派遣も関西にとどまらず、さらにはそこから派生してアフリカの物品展示や料理教室といった新しい分野も開拓した。セレンゲティ・プロジェクトでは雨基金を通じて新たな奨学生への支援も生まれた。そして、数多くの意欲的な新会員を迎え、より充実した活動ができるようになった。走り出したばかりの私たちが、これまでの来し方を振り返るのは時期尚早だろう。しかし、それでも設立当初、会員が持ち寄った漠然とした淡い夢が、一つ一つ具体的なプロジェクトとして結実し、そして似たような想いを持つ人々が少しずつ集まり始めたことを思うと、私は、大きな喜びを感じる。

もちろん満足するにはまだ早すぎる。今年度は、関西を中心に「アフリカ・ブーム」をおこすべく、他の団体とも協力しながら、いくつかのイベントが企画されつつある。またアフリカの各地で、それぞれのフィールドの人々と一緒に練られつつある構想が実現するまでには、まだまだたくさんの議論と試行錯誤が必要だろう。そのひとつひとつが、カラハリの少女達が差し出してくれたあの揚げたてのドーナツのような、多くの人々のなにげない、それでいて尊い思いやりの結晶となるように、いまいちど気を引き締め、新たな一歩を踏みだしたいと思う。