10年をふりかえって−根をはったアフリック−(会報第11号[2013年度]巻頭言)

岩井 雪乃

アフリックの産声

10年前、アフリックの設立準備の会議に、私は2歳の長女の手を引いて、次女がいる大きなおなかで出席していた。博士論文は、いよいよ仕上げに入っていた。

「アフリックを立ち上げよう!」と真剣に考えるようになった時期、私はもう3年もアフリカに行っていなかった。子どもが小さいし、博論も書かなければならない。まだしばらくはフィールドに行けそうもない。それでも、アフリカとつながり続けたい。日本にいてもできることを何かやりたい・・・そんな想いが募っていた。

そんな時に、ちょうど周りに同じ想いをもった院生仲間がいた。「研究」だけではなく、同時代に暮らす人間同士としてアフリカの人びととつながりたい、「研究成果の発表」だけでは何か足りない、と感じていた仲間たちだった。みんなで夢を語り合いながら、NPO法人登録の作業を進めた。希望にあふれた、とても楽しいプロセスだった。

アフリック・メソッドへの発展

アフリックは、アフリカのような組織だと思う。メンバーはそれぞれ、行っている国も興味関心も、社会的属性も異なる。多様なメンバーが、ゆるやかにつながりながら一つの集団になっている。

そんなバラバラな私たちが、やりたいこととして一致したのが「アフリカから学んだことを日本に伝える」という活動だった。そして10年の間にさまざまな情報伝達手法を試みて、その結果として、「アフリック・メソッド」という形になった。アフリック・メソッドの特色は、㈰「アフリカ先生」「写真・物品展」など実物・ナマの素材をいかした伝達手法と、㈪メルマガ・WebサイトによるIT発信、を組み合わせた点である。㈰では五感をフルに使ってアフリカを感じてもらい、㈪によって日常に戻ってからもつながりを保ち続けてもらうのである。一つの手段ではなく、複数の手段で多面的に感性に働きかけることで、立体的なアフリカ理解が可能になると考える。

「失敗」を共有して「共感」へ

さらに私は、自分のフィールドで「セレンゲティ・人と動物プロジェクト」を始めた。人材育成の奨学金を提供し、アフリカゾウによる農作物被害対策を実施している。セレプロで努力しているのは、「失敗」をどんどん伝えることである。「失敗」は、多くの場合、私の思い込みであったり、あるいは現地協力者の思い込みが原因で起こる。その時、なぜ失敗したのかを分析すると、今まで知らなかった現地の事実や人びとの考え方が立ちあらわれる。つまり、私は新しい何かに気づき・発見し・学ぶことになる。この過程そのものを、日本の支援者と共有することが重要なのだ。「私の学び」を共有することで、現地への「共感」が生まれるのだと思う。

例えば「セレンゲティの雨基金」の奨学生たちは、学校を終えてすぐに仕事が見つかるわけではない。タンザニアの雇用事情に左右されながら、それぞれの知恵とネットワークを駆使して仕事を探す。そんな彼らの生き方自体が、まさに私たちに同時代のタンザニアを教えてくれるのである。

変容するアフリカ

このようなアフリックの努力の甲斐あって(?)、10年前と比べると、日本人のアフリカのイメージは大きく変わった。かつては「貧困・紛争・エイズ」という負のイメージが強かったが、近年は「資源・成長・可能性」という正のイメージも大きい。身近な変化としては、アフリカに行く大学生が確実に増えている。また、アフリカ側の変化も著しい。この10年で、携帯は大陸のすみずみまで普及し、首都には高層ビルが立ち並び、道路網の整備も進んでいる。村から大学に進学する若者も増えてきた。

このように日本のアフリカイメージが変化し、アフリカ自体も変化している中では、アフリックの立ち位置を再定位することが必要になっている。それを、次の10年に向けての第一歩にしていきたいと思う。

根をはったアフリック

アフリックを立ち上げた時、私も含めてメンバーは全員、大学院生だった。「アフリカ研究」を楽しんでいたものの、「この先、ちゃんと仕事あるのかな?」と誰もが不安に思っていた。今はどうだろうか?見渡してみると、それぞれに社会の中で役割を見出して、頼もしくサバイバルしているといえそうだ。わが家の娘たちも中2と小5になった。今では、私の帰りが遅い時には、晩ごはんを作ってくれるほどになっている。

メンバーの自立と同じように団体としてのアフリックも、根をはって基盤を安定させたと思う。これからは、さらに豊かな葉をしげらせるべく、アフリカとともに育っていきたいと思う。