服部 志帆
今年4月から大学で専門的にアフリカを教える機会に恵まれた。私が担当している授業はアフリカの入門から、応用色を強めたゼミに至るまで、すべてアフリカに関するものである。私が受け持つ学生の大半は、ヨーロッパ・アフリカ研究コースを専攻している。このコースはヨーロッパの人気につられて学生が集まってくるが、彼らの多くにとってアフリカはヨーロッパにくっついてくるおまけ程度のものである。
そんな学生たちのアフリカに対する関心は低い。授業中に学生にアフリカについて質問してみる。「アフリカには、何カ国ある?」、「民族の数は?」、「動物を食べると、病気や不幸になるのは、なぜ?」、「ゾウ人間、半身半獣はなぜ生まれたの?」などなど。授業のテーマごとに質問の内容を考え、学生の関心や好奇心をつつこうとするが、学生はなかなかのってこない。私が熱く語れば語るほど学生は引き潮のごとくひいていき、私ひとりがから回りしていた。
授業のあと、ある学生が私に言った。「先生はマニアやなぁ〜」。この言葉は、私に突き刺さった。学生にとって私は異邦人であり、その異邦人が語るアフリカの人々もまた異邦人なのである。私が専門的にアフリカを語ることによって、学生にとってアフリカはますます遠くなっているのではないだろか?そんな不安と危機感が生まれた。なんとかしないといけない。
すがるような思いで考え出したのが、やわらかい手段を用いるということである。写真、エッセイ、物品、映像、音楽など使えるものはなんでも使って、学生をアフリカのとりこにしてやる。アフリックでこれまでやってきたイベントが後押ししてくれた。わかりやすくて学生が興味を持てそうな教材を探し出しては、毎回実験室へ向かうような気持ちで教室へ向かった。
そのうち学生が少しずつ違った反応を見せはじめた。アフリカ人のたくましさやかっこよさに気づく学生や役者のように感情を投入してエッセイを読む学生、授業のあとに質問にやってくる学生があらわれた。もちろん、寝たままの学生、途中退出する学生がいないわけではない。全体からみると、ささやかな変化かもしれないが、少しでもアフリカの人々への共感や理解を深めてくれる学生が出てきたのはうれしい限りだった。
4月から大学でアフリカについて教えるまで、私はこれほどアフリカ理解への道のりが険しいものであるということを知らなかった。12年前にアフリカの地に初めて降り立って以降、私のまわりにはアフリカと関わりのある人が増えていった。アフリカについて語り、学び、いっしょにアフリカを楽しむ場はいつもそばにあった。そのため、アフリカに関心の無い人たちの存在を忘れがちになっていた。しかしおそらく、日本におけるアフリカ理解の状況は、私の大学でみられるものとさほど変わらないのではないだろうか。
私はこの半年間の経験を経て、アフリカを語るときのメソッドの重要性について実感した。アフリックはこれまで、写真展や物品展、エッセイ展、映画祭、コンサート、絵画教室や料理教室などさまざまなイベントを行ってきた。みずから企画したものもあれば、外からの要望に応えるために行ったものもある。出所はどこであれ、このことは、結果としてアフリック内に数々のメソッドを蓄積してきた。このようなメソッドは、私たちが思っている以上に重要かもしれない。私の授業をとっていた学生のごとくアフリカに関心のほとんど無い多くの日本人の心のとびらをひらく可能性を多分に秘めているのだ。とっておきのアフリカンビートでノックできるように、わたしたちはアフリック・メソッドをもっと洗練させる必要がある。おまけであったアフリカが本命にならなくとも、多くの人のなかでアフリカがきらりと輝く瞬間を求めて、それぞれが「マニア」であるメンバーとともに試行錯誤をしていきたいのだ。