「私はそれを知らない」

林 耕次

アフリカの熱帯地域で、定住した狩猟採集民バカ・ピグミーの調査をするようになって長く経つが、彼らと生活をするなかで、自分自身の習慣や常識を考えさせられることが幾度となくあった。

狩猟採集社会が「平等主義社会」であるというのは、これまで様々な文献に記され、実際に先輩研究者からもその根拠となる社会の仕組みというものを聞いてきた。実際、バカの人々が暮らす集落では、家の造りや着ている服、家財道具などの所有物で多少の違いはあるにせよ、貧富の違いはほとんどない。食べているものや、彼らの日常的な行動をみても、基本的にはだいたい同じである。食物分配にみられるように、とくに森のキャンプでは罠にかかった動物や、採集してきたヤムイモや木の実など、一応の所有者は決まっているものの、キャンプ地ではおおむね均等に分けられる。そうした、持ちつ持たれつの関係が当たり前の社会ではあるのだが、どうにも不可思議な「不平等」が、一方ではまかり通っていると感じることがある。すなわち、女性と男性での担当する労働・作業である。

狩猟採集社会のおもな生業では、狩猟は男性、採集は女性、という前提があり(※本エッセイシリーズの「ごはんをつくるのは、おなかがすいたひと」(丸山淳子)冒頭でも言及されている)、バカの場合は、狩猟活動において罠作りやその見回り、槍や銃を伴った動物の追跡などは男性が行うもので、女性が積極的に行っている事例を私はみたことがない。ただ、採集については男性も行う。森のキャンプ生活では主食となるヤムイモの採集には多くの時間が費やされるほか、様々な木の実やキノコ、食用となる昆虫、香辛料、薬用植物などの採集活動は男女問わず行われている。

写真1 跳ね罠を仕掛けるバカの男性

漁撈については男女で明確な区別がある。釣り方式の魚とりは、もっぱら男性によって行われ、他方で掻い出し漁といわれる、森の小川の流れを堰き止めて行われる漁は、必ず女性によって行われる。川の流れを堰き止めるため、土手の土塊を運んだり、堰き止めた後で水を掻き出す作業はなかなかの重労働だが、仮に男性たちがその場に居合わせていたとしても、ただ脇に立って眺めているだけだ。

「手伝わないの?」とバカの調査を始めた当初、男性諸君に訊いたことがあったが、見るからに単純な作業にもかかわらず、「俺はやり方を知らない。」という返事だった。

同じような話はほかにもある。バカの伝統的な簡易住居であるモングルは、森にある植物素材のみで作られる。細い幹の灌木やクズウコン科の大きな葉を集めてきたら、数時間で出来上がる。モングル造りも女性の仕事とされ、やはり男性陣は「作り方を知らない」と応える。

写真2 モングルを作るバカの女性たち

ピグミー研究者のあいだでは有名な話だが、モングルで一緒に暮らす夫婦で喧嘩があった時、怒った妻が堪りかねて自分で作ったモングルを破壊する、ということがある。私も何度かそういう現場をみたことがあるが、その後、「作り方を知らない」男性は、仕方なく親族や友人の家に居候する羽目に陥るのだ。

ただし、男女の分業がある程度決まっていても、一部の採集活動と同様に、料理や育児においては臨機応変に男女問わず行っているケースもある。いや、むしろ女性の手が空いていないときに、仕方なく男性が手伝うというべきか。

写真3 森への移動時、妻が荷を背負い、子どもは夫が担いでいた

最近の研究に関連して、定住集落でのトイレ造りの際にも、そうした男女の分業が垣間見れる話しを聞いた。ある女性は、「集落のトイレを欲しいが、男性たちが穴を掘るのに真剣ではない」と不満を漏らしていた。トイレ造りの際に、道具を使って固い地面を掘るが、その作業は男性に委ねられている。つまり、その作業が行われないと、女性が希望していてもトイレ造りが遅々として進まないのだ。これは、男性が担当する、近隣農耕民方式の土壁造りの家づくりでも同じように、作業が進まないことによる女性(妻)からの不満の声があったことを思い出させた。

写真4 トイレ用の穴を掘る男性

ひとびとの暮らしのなかでは、他者と共有する空間において、さまざまな分業が意識的/無意識的に生じている。森で遊動生活を行っていたときから定住生活が徐々に定着することで、バカのあいだで男女の役割や分業の形はいくらか変わってきたのかもしれない。

私自身の日常においても、特にコロナ禍以降は職場に出勤せず、自宅での「在宅勤務」に勤しむ日々が続いてきた。コロナの影響にかかわらず、日々職場へ通う妻に代わって、必然的に家事を行う頻度が増し、子どもやペットとの時間も多くなった。とはいえ、家事全般が完璧にこなせるのかというとそういうわけでもなく、些細なことながら日々の重圧にもなり得るのだ。そんなときは、必要に迫られて行う家事・作業と男女の分業において「私は知らない」で済まされる世界への、ある種の羨ましさを感じてしまうのである。