ごはんをつくるのは、おなかがすいたひと

丸山淳子

「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に…」そんな昔話を聞いて育ったせいなのか、桃太郎の時代から、あるいは太古の昔から、男性と女性には、それぞれに役割が決まっていると、どこか思い込んでいた。男性は狩猟をし、女性は採集をする。それこそが人類社会の基本となる性別役割分業だと、なんとはなしに信じ込んでいたのだ。だから、現代の狩猟採集民として知られるブッシュマンの社会には、疑いもなく「男の仕事」と「女の仕事」があると思っていた。そこでフィールドワークを始めてしばらく経ってから、私は、男女それぞれの仕事の一覧をつくることを考えた。この社会では、最近になって、狩猟採集以外にも、いろいろな経済活動が導入された。その一つ一つを挙げながら、男女どちらの仕事として定着しつつあるのかを調査することにしたのだ。

ところが、この調査、ちっともうまくいかない。いや、もうほんとに、ちっともうまくいかないのだ。「牛の世話をするのは、男の仕事?女の仕事?」「牛の世話をするのは牛が飼いたい人の仕事だ」。「道路工事の仕事は、男の仕事?女の仕事?」「道路工事の仕事をするのは、お金がほしい人だ。働くとお金がもらえるからな」。「ミシンをかけて、洋服をつくるのは、男の仕事?女の仕事?」「それは、ミシンの扱い方を知っている人の仕事だ」。

ずっと、こんな具合だ。どの答えも、私の想定からは、ずれてしまう。きっと、私の質問の意味がうまく伝わっていないのだ。もう一度、説明しなおそう。「昔ね、あ、ほら、このおじいさんがまだ子どもだったころね。牛も工事現場もミシンもなくて、狩猟や採集をしていたでしょう?」そうそう、と、ここまでは、みんなうなずいている。良かった。「そのとき、男の人はキリンやエランドやスティーンボックを狩ったでしょ。女の人は、マメやスイカを採りに行ったでしょ。それで、今は、いろんな仕事があるけれど、そのなかで、狩猟みたいに、男の仕事になっているのはどれ?」ようやく伝わったのではないかという私の期待に反して、かえってきた反応は無情なものだった。

「ちがう、ちがう」。みんな、そろって首を横に振っている。「狩りに行くのは、男だけじゃない。女も狩りに行く。狩りが好きな男は狩りに行く。狩りが好きな女も狩りに行く。」「え、そうなの?狩りは男の仕事でしょ?だって、あなたは狩りに行くけれど、あなたの妻が狩りにいくのを見たことない!」少しムキになった私に、隣に座ったおじさんが静かに答える。「俺は狩りが好きだ、妻は狩りが好きじゃない。女だって、男だって、狩りがしたければしたらいい。できるならやったらいいし、できなかったらやらなきゃいい」。別のおじさんが、話し出す。「そうそう、俺たちの親戚のあのおばあさんは、しょっちゅうに狩りに行ってたよな。」「あぁ、彼女な。彼女は、とくにすごかったよな。小さい槍をもって、いろんな動物を捕って帰ってきたものだ。彼女は強かった。」「な、ジュンコ。狩りは男の仕事じゃないんだ」。

でも、だって、みんな、そう書いていたじゃない。狩猟採集社会では、狩猟は男性が、採集は女性が担いますって。いくつもの本にそう書いてあったよ。…なんて言っても、通じるはずがない。当然だ。なんといっても、目の前にいる彼ら狩猟採集民自身が、違うと言っているのだ。狩猟は男の仕事じゃない。男でも女でも、やりたい人がやればいい。

私がお世話になっているうちのお母さんが、ふと立ち上がり、話の輪から抜けて、火にかけた大きな鍋の様子を見にいった。もう一度、尋ねてみよう。「ごはんをつくるのは男の仕事?女の仕事?」寝ころびながら、話を聞いてたおじいさんが、少しあきれたような顔で口を開く。「ジュンコ、そうじゃない。いいか、おなかがすいたら、ごはんをつくるんだ。小さい子どもが泣いたら、ごはんをつくってやるんだ。そういうものだ。男もおなかがすく、女もおなかがすくだろ?だからつくる。小さい子どもはごはんがつくれないだろ?だからつくってやる。男もつくる。女もつくる。そしておなかいっぱいになる。子どもも泣き止む。良いことじゃないか。」「女しか、料理しなかったら、俺たち、おなかすいて死んじゃうぞ!」どっと笑い声が上がる。

そういえば、ごはんをつくってくれるのは、このうちでは、お母さんだけじゃない。お父さんもつくる。おなかすいたと言っては、鍋を洗う。子どもがおなかをすかせていると言っては、鍋に入れたトウモロコシをかき混ぜる。お父さんが料理をするとき、なんの躊躇もない。彼の姿を見て、非難めいたことを言う人も、あるいは称賛する人もいない。お父さんでもお母さんでもごはんをつくって、できたらみんなで食べて、おなかいっぱいになる。おかしなことではないし、とがめられることでもないし、褒められることでもない。

「男の仕事」と「女の仕事」をしつこく聞き出そうとする私は、そうとう滑稽だったのだろう。それからしばらくのあいだ、折に触れて声をかけられた。「ほら、みてごらん、彼女は牛の世話をしているでしょ。女だからできないと思った?強い人なら、できるのよ」「ほら、俺は洗濯をしているぞ。男だって、服が汚れたら洗う。毛布も、靴も洗うぞ」そうやって、ちょっとしつこいくらいに言われ続け、私の「男の仕事」「女の仕事」の一覧をつくるという、浅はかな調査計画はすっかり頓挫した。

でも、わかったことがある。実のところ、牛の世話をしているのは、男性が多い。狩猟に行くのだって、男性がほとんどだ。料理や洗濯をしている頻度は、女性のほうが多いし、畑の収穫作業に集うのも女性が主だ。大雑把に見れば、男と女の仕事がわかれているようにさえ見える。そのうえ「男ならこうするべきだ」「女にはできない」そんな言説を繰り広げるメディアからまったく隔絶されているわけでもない。近隣には、男女の役割分担をとりわけ強調するような決まりや習慣をもっている他民族も暮らしている。

だから、たぶん気を抜くと、狩猟は男の仕事だと言ってしまいそうになる。料理は女の仕事だと決めてしまいそうになる。そのギリギリのところで、彼らは、どうにか踏みとどまろうとしているのではないか。男だからやる、やらなくてはいけない、あるいは男だからやらない、やってはいけない。女だからやる、やらなくてはいけない、あるいは女だからやらない、やってはいけない。そんなふうに理解することは、いつも誘惑的だ。男の仕事と女の仕事の範囲をあらかじめ決めて、それに従って生きていくことにすれば、何も考えなくていいからラクかもしれない。そう思うときは、私にだってある。

でも、そうやって、決めてしまうことは、私たちの目をくらます。本当に大事なこと、例えば、おなかがいっぱいになること、子どもが泣きやむこと。そういうことから、私たちの目をそらさせる。そして、私たち自身を、窮屈な世界に閉じ込める。だから、ブッシュマンのおじさんもおばさんも、繰り返し、私に言うのだ。私たちは、おなかがすいたら、狩りに行けばいいし、ごはんをつくればいい。男だって、女だって。

写真1 ごはんをつくるお母さん

写真2 ごはんをつくるお父さん