願掛けと猟果(カメルーン)

安田 章人

早朝、遠くから銃声が響く。「ああ、また誰かが狩猟してるんだ…。」乾季の朝のひんやりした空気を感じつつも、まだ寝袋から出られないでいる筆者は、そう思った。

アフリカ中央部・カメルーン共和国の北部。ここには、壮大なサバンナがひろがる。「サバンナ」と聞けば、多くの人が「野生動物」と連想するだろうか。この地域にも多種多様な野生動物が生息している。アフリカゾウ、ライオン、キリン、カバ、ワニ、ヤマアラシ、ジャッカル、コブ(アンテロープの一種)、ダービーズエランド(アフリカ最大のアンテロープ)などなど。村に住む人々にとって、これらの野生動物は、農作物や家畜、そして、ときには人間に被害を与える存在である。特に、アフリカゾウは、もっとも大きな被害をもたらし、畑のトウモロコシが1晩ですべてゾウの胃袋に収まってしまうこともある。

しかし、野生動物は、同時に村人の胃袋にも入る。つまり、食料となるのである。筆者が滞在していた村には、ほとんど家畜がおらず、タンパク源として村人は、もっぱら川で捕れる魚か、サバンナに生息する野生動物に依存している。彼らは、ゾウからヤマアラシまで、体の大小に関係なく狩猟対象にしてきたが、特に、コブと呼ばれるアンテロープの一種はこの地域の優占種であり、そこかしこで発見することができるため、一番のターゲットにしている。村の男性は、銃や毒矢を携え、未明から朝にかけて、狩猟に出かける。朝に出かけるのは、その時間帯はまだ気温が上昇しておらず、動き回っている動物たちを見つけやすいためである。その後、日が昇り気温が上昇すると、動物たちは木陰で休んでしまうため、見つけることは難しくなる。

ある日の日中、筆者の友人が猟から帰ってきた。猟果はゼロだったらしい。
「3発も撃ったのに、ちっとも当たらなかった。」
彼は、けっして素人ではない。あるときは、大きなカバを仲間とともに仕留めてきたこともある。
「どうしたん?」
「今日は、お守りを忘れたんだよ」

彼は、猟に出かけるとき、不思議な匂いがする塊を持っていく。それは、白化したサンゴのように固く、香水のようなにおいがするものである。彼曰く、それはイボイノシシを狩った際に皮の下から出てきたものらしく、それを持って狩りに行くと成功するのだという(イボイノシシではなく、ジャコウネコではないかと思うが…)。それを忘れたため、今日の猟は失敗に終わったという。
「しかも、猟に出かけるとき、村の裏の通りで、逢瀬に行っていた○○と会ってしまったんだ。」
「ああ、あの△△と密かに付き合っているっていう・・・。」

彼曰く、猟に出かける前に、そのような女性と会ってしまったために、撃った弾はことごとく外れてしまったという。弾はライフル弾ではなく、広範囲に弾が広がる散弾であったのに。 これらは、不猟に終わったことに対する彼の言い訳とも考えられる。しかし、日本でいう「願掛け」や「験担ぎ」というものが、彼らの生活のなかにも強く息づいているのだろう。ましてや、日々の食料に直結した猟果にかかわるものならば、「黒猫が自分の前を横切ったので、今日は不運」というレベルではないと思われる。しかし意外にも、獲物を狩り損ねた彼の顔に、無念さはそこまでみられなかった。これもまた、彼の狩人としてのプライドがそうさせているのか、あるいは、無念さも出ないほど、好猟をもたらす「お守り」と不猟をもたらす「そのような女性」の「力」を信じているのか。これは、「狩って生きる」狩人にしかわからないのかもしれない。


カメとネズミを槍で狩猟した子供たち。その顔はすでに狩人?
注)カメルーンの現行法では、狩猟許可の取得や税金の納付をともなわない、ゾウやカバなどに対する狩猟は禁止されている。しかし、このような住民自身による狩猟によって得られる野生動物の肉とは、家畜をほとんど所有していない彼らにとって、貴重なタンパク源である。また、この狩猟には、ただ肉を得るだけでなく、精神・文化的意味もある。このような齟齬には、スポーツハンティングという、主に欧米からの観光客がおこなう狩猟が関係している。詳細については、拙著「第8章『持続可能な』野生生物管理の政治と倫理—アフリカの野生生物をめぐる一局面」『環境倫理学』,鬼頭秀一・福永真弓編著,東京大学出版会, pp.130-145, 2009年を参照されたい。