日本に難民として庇護を求める人びとは、船や飛行機でやってくる。
アフリカの国に難民として庇護を求める人びとは、大半が歩いてやってくる。
そうして陸続きのアフリカの国ぐにでは、国境はあってないように難民が行き来するとも言われるが、そうでない現状もあるようだ。
「おれはまだ自分の国に帰りたくないね」
アンゴラ難民のケビンは言う。
ケビンは2000年に、アンゴラ南東部の村から歩いてザンビア西部までやってきた難民だ。
彼は生活保護のうけられる難民キャンプを拒み、また国連がすすめた本国への帰還をも拒んでザンビアに滞在することを選んだ。しかし今日、ザンビアの町に住む限り、難民の彼らへは食料援助もなければ社会福祉サービスも一切なく、水道代と家賃等を月々払わなければならない。そこでケビンは仕立て屋を営み、わずかに得られる収入をやりくりして、どうにか生計を支えていた。
ケビンがアンゴラから避難してきた頃は、内戦が日に日に激しくなった時期だ。ある日、ついにケビンの村は爆撃された。ケビンの家族は戦火のなかちりぢりになって逃げまどった。そしてケビンだけが一人ザンビア国境まで辿り着き、そこで国連とザンビア政府に保護された。その後彼は難民キャンプに入ったが、より現金の手に入る大工となって町へでてきた。町で仕事をするようになってからは、キャンプではなく町の住居を借り始め、やがて仕立て屋を開始した。
ケビンの店へは、老若男女、いろんな客が訪ねてくる。
「高校のスカートを縫って」「子供が小学校に入学したんだ、その上着がほしい」「この古着のズボン、気に入って買ったけど大きいんだ」「私のアフリカンドレス、この形でお願い」
お得意客、たまたま通りかかった初めての客、彼を難民と知る者・知らぬ者が訪ねてきてはザンビアの言葉で話しかけてくる。ケビンは来客に、やはりザンビアの言葉で流暢に返しながら、肩に下げているメジャーを手にとって、サイズをはかり、小さな手帳に書き込んでいく。その手帳にはザンビアの人びとの名前とサイズ、その他の情報が、ページからあふれんばかりにアンゴラの言語でメモされていた。
2010年に入り、アンゴラでの紛争が終わって早8年が経過する。
近年のアンゴラの急速な経済成長は、アフリカ諸国だけでなく世界中から注目を集めてきた。こうした状況を知るケビンは、今いるザンビア西部の田舎町で仕立て屋を営まなくとも、その気になれば本国でのより豊かな生活を求めることもできるはずだ。それでもケビンは今日まで、自ら本国へ帰ろうとしなかった。
「なぜ帰らないの?」と聞く私に、彼は「だって、またそのうち戦争がおこるから。アンゴラはそういう国さ」と答える。でも、故国の復興がすすむなかアンゴラで生き残っているかもしれない家族を思うケビンにとってみれば、本当は今日だけでなく、明日の自分の気持ちすら、どう変わるものなのか、わからないのかもしれない。そんなケビンの生活のなかで、彼の小さな手帳は、ただ彼がザンビアで『留まっている』だけでなく、多くの人と関わりながら『新たな日々を歩んできたこと』を、静かに示している。