旅涯の地で(アンゴラ・ザンビア)

村尾 るみこ

「私は2005年にザンビアからアンゴラへ帰ってきた。でも当時、このあたりは地雷が多くて、撤去してもらったんだ」
アンゴラの小さな川沿いにある集落で、老人ネゴが静かに語る。私はアンゴラ紛争前後の村での生活に関する聞き取り調査をしようと、ネゴの住む集落を訪ねていた。バイクタクシーで風を切りながら、慣れない土地でふと目に留まったその集落は、かつてザンビアにアンゴラ難民として逃げていた、帰還民の住む集落である。

老人ネゴの集落近くに流れる川。 ネゴたちはこの川づたいにザンビアへ逃げた。

アンゴラは、300年にわたるポルトガルの入植をへて、独立解放闘争と内紛を経験した。推定1940年代生まれのネゴは、1966年にこの集落付近での戦争激化と同時に、国境を越えて西隣の国ザンビアへと避難し難民として生活していた。2002年にアンゴラでの内紛が終わると、ネゴは、かつて住んでいたアンゴラ東部で集落へ自主帰還した。

「アンゴラからザンビアへの旅は、おなかが空いたことをとても覚えている。この集落は当時、南アフリカ軍に爆撃される危険があった。南アフリカ軍は、近くの町にいたポルトガル人たちを狙って爆撃をしかけてきたんだ。でも、その爆撃によって、ポルトガル人だけが死ぬわけじゃない。私たちアフリカ人も被害にあっていたんだ。1966年に大きな爆撃があったときにはびっくりして、親戚や家族とザンビアへ逃げた。ほとんど手ぶらで、ほら、ちょうどそこの川辺で、置いていた小さな木彫り船に乗って逃げたよ。」

ネゴらは、はじめは国境の村まで行って、そこからまたさらに東へと歩いた。彼らは途中、水と食料をわけてもらった村で、アンゴラから逃げてきた者たちに牛肉が配られている場所があると聞いてさらにそこから東へ向かった。ネゴが後で聞いた話では、国連のUNHCRがザンビアの村で買い上げた牛を配っていたという。そこからネゴたちは、ザンベジ川の東岸へ渡って、モングという町にいった。ここで難民登録をし、UNHCRによって、難民定住地へと輸送された。

「ザンビアで過ごした難民定住地では、たくさんの援助がはいった。私たちは、アンゴラの集落でたべていたキャッサバやトウジンビエではなく、ソルガムや大豆などを配給としてうけとった。幸いなことに、しばらくすると耕地も持ち、アンゴラで食べていたキャッサバを育てることができた。正直言って、そこの定住地の土地はこのアンゴラの集落付近の土地ほど肥沃ではなかったね。ただ、援助がはいったおかげで、耕作のための農具や種ももらうことができた。そうしているうちに、私たちは、援助で届いた農薬が毒とは知らずに使ったことによって健康被害にあった。だから、その難民定住地は、『蛇が息を吐く(危険な空気が漂う)』場所と噂されていた。その一方で、たくさんの援助がはいったおかげで便利なこともあった。例えば、トウモロコシを製粉する機械も使うことができたよ。それに引き替え、今のここ(の生活)はどうだ?戦争がおわって、ようやく私たちは自分の国へと帰ってきた。私は自分の生まれ育った土地で、再び集落をつくったんだ。ここでは、確かに、自由にどこにでも土地を得ることができるけれど、戦争中からずっといる(伝統的な)首長と折り合いをつけないといけない。それに、ここはアンゴラの辺鄙な場所だから、ザンビアの同じ難民定住地から帰ってきた者、アンゴラ各地から集まってくる者たちと協力し合って、遠くのマーケットで農作物を細々と売る日々だ。アンゴラにいた者、ザンビアにいた者が協力し合うことは、そんなに簡単なことじゃないんだ。」

ネゴの暮らす集落

ネゴの暮らす静かな集落は、住居や穀物庫がきちんと立ち並んでいてよく手入れが行き届いている、落ち着いている集落だと、私の目には映る。でも、帰国後8年を経たネゴにとって、「故地で日常を営むこと」は、今日のアンゴラ社会のなかで、紛争とはやはりきっても切り離せない困難を抱えるものであることが確かなようだ。

この旅涯の地では、容易に乗り越えがたい現状がある。それでも、ネゴやその集落に暮らす人びとは、少なくとも現在に至るまでザンビアでの援助をもらえる生活には戻らず、アンゴラで再編した集落で毎日を過ごしている。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。