日曜日は唯一、畑仕事が休みの日。朝からおめかしをして教会へ出掛けた人びとが、お腹をすかせて家路を急いでいる。だが休みだからといって、もたもたお昼を食べてはいられない。男性はサッカー、女性はネットボールと、午後は地区対抗のスポーツ大会へ出掛けて盛り上がるのが、村びとの休日の楽しみだからだ。
その日も、私は友人たちとグラウンドへ向かった。試合がホームの日は大盛況で、20歳前後の精鋭たちのプレイを応援しようと、辺り一帯の村々から人が集まって来る。
「俺が若かった頃は、いったんボールを渡されたら蛇のようにするするっと相手をかわし、必ずゴールを奪う危険な選手として知られたもんさ。サッカーが上手けりゃ、そりゃもう、女たちが放っておいてくれない」。そんな自慢話を酒の肴に、赤い眼をして飲んだくれるおっちゃんたちも、ゲームの日は一変。それぞれがもはや監督になりきり、真剣な眼差しで選手を追って行ったり来たり。好き勝手に指示を飛ばしては、若者を褒めたり貶したりと大忙し。ときには選手以上に熱くなってしまうが、反則プレイで乱闘騒ぎになれば、若者を宥め諭し、鎮めるのも彼らの務めとなる。
野次を飛ばすおっちゃんたちの傍らで、同じく熱い眼差しでゲームの行末を静かに見守る長老たちや、お気に入りのラジオで流行のポップを聴きながら出番を待つ青年たち。ときに、ウシやヤギの群れがグラウンドにお邪魔し、試合観たさに放牧を怠けた牧童の少年たちがどやされている。そこへ、隣の球技場でネットボールの試合を終えた女性陣も、続々と子供たちを引き連れやって来た。彼女たちの軽やかな歌と踊りが、終盤を迎え白熱する男たちの試合に花を添える。
ほどなくして、お気に入りの青年目当てに着飾った少女たちの控えめな声援が、お母ちゃんたちのドスの利いた野次にかき消された。隅の方で、晩ご飯の支度が間に合わなかった若いママのラッカセイ剥きを手伝っていた奥さん連中も、小腹をすかせた観客相手に自家製の揚げパンを売りさばいていたおばちゃんも、皆、手を止め息を呑んだ。次の瞬間、ボールが宙を舞い、相手ゴールを突き刺した。一瞬の静寂の後、誰かの叫び声が乾いた大地に響き渡った。「ウィリー(ゴール)!」続いて、おっちゃんもおばちゃんも、若者も子供も、味方の誰も彼もが歓喜の声をあげ、一斉に選手のもとへと駆け込んでいった。
ある日の夕方、サッカーの練習をする男性たちの脇を通りかかると、いつもと違う顔ぶれが目に留まった。「チーム・マダーラだ!試合を控えているらしい」。隣の友人が興奮気味にグラウンドを見遣り足を止めた。チーム・マダーラ?訳して「おじさんチーム」。全くひねりのないネーミングに苦笑してしまったが、その名の通り、いつもは口うるさいサポーターのおっちゃんたちが、青年チームに代わって、夕陽を背に必死にボールを追いかけていた。
数日後、チーム・マダーラの面々はお揃いのユニフォームに身を包み、精悍な面持ちで町の野外スタジアムのピッチに立っていた。村びとの活動を支援する国際NGOが主催した交流試合に招聘されたようだ。彼らが最初に向かったのはグラウンドではなくNGOのオフィスで、パンとジュース、続いて主食のシマに肉料理と、豪華な料理や招待バンドの演奏でもてなされていた。なるほど、こんなオイシイ試合、若者に任せてはいられない。
ぎゅうぎゅう詰めのバンの荷台で一緒に揺られ、歌ってやって来た村のおばちゃんたちも、応援団ではなく、ネットボールの試合を戦いに来た選手だと知った。マダーラの隣のロッカールームに入り、まるでチアガールのコスチュームのようなユニフォームに大きなお尻を包み始めた。作戦を確認し合い意気込む彼女たちは、「何ぼさっとしてんの、あんたもプレイするならポジションやるよ」と、呆気にとられる私を笑ってベンチに置き去った。
おばちゃんたちが試合を終えて戻って来た頃、マダーラはすでに息が切れ、足がもつれ、町の男子学生相手に苦戦を強いられていた。おばちゃんたちも、すらっとした手足で機敏なパス回しをする女子大生チームに惨敗を期していたが、試合後の挨拶で歩み寄った女学生相手に、「うちらのホームにそっちが来たら、またいつでも相手になるよ」と笑顔の捨て台詞をきめてきた。そんなパワフルなおばちゃんたちは、マダーラの勇姿を前に、まるで女学生に戻ったかのような瞳をし、最後まで声援を送り続けた。いつの間に調達したのか、村で待つ家族のための薬や食糧を詰め込んだビニール袋をその手に提げて。
やがて三度の笛の音が、白いブロック塀で囲われたスタジアムに鳴り響いた。互いの健闘を称えて手を握り合うおっちゃんとおばちゃんたちの笑顔は、何とも凛々しく輝いていた。そして、感動に浸ってぼやぼやしていた私と、着替えを終える寸前のおっちゃんたちを横目に、おばちゃんたちが乗合の車の方へ一斉に駆けだした。より良い席を確保するための彼女たちの走りは、この日一番のスピードだった。
このような感じで、いくつになってもタフな人たちと共に日々を過ごすなか迎えた、2010年ワールドカップ・アフリカ最終予選。ザンビア代表は初戦でエジプトと引き分け、第2戦でルワンダに勝利し、迎えた第3戦。強豪アルジェリアとの対戦を前に、国民は皆手に汗握り、興奮の渦に包まれていた。
首都に住む友人の一人は、テレビの前にはいてもたってもいられず、自分の所有するバスに国旗を掲げ、知人を大勢乗せて、400キロ以上離れたスタジアムへ仕事後徹夜で向かった。村では、テレビを備える学校教師の自宅へ押し寄せた大勢の人びとが、ざらつくモノクロ画面にかじりついていた。自国の代表選手を応援する気持ちは、どこの国民にも通じるものだろう。ザンビアの人びとにとってそれは、単なるサッカー熱ではなく、過去の悲しみを乗り越える戦いでもある。
1993年、ワールドカップ・アフリカ最終予選の開催国セネガルに代表選手団を送るため、資金が不足していたザンビア・サッカー協会は、民間機ではなく軍用機をチャーターした。その機がガボン沖で墜落、選手18名を含め搭乗者全員が命を落とす大惨事となった。このときの代表チームはザンビア史上最強と称えられ、本大会初出場の期待は最高潮だった。夢と希望を与えてくれる選手たちの突然の不幸に、国民は皆、大きな落胆と哀しみに暮れたという。
今年に入り、ザンビアの隣国アンゴラで開催されたアフリカ・ネイションズ・カップでは、トーゴ代表選手団を乗せたバスが大会開催地に向かう途中で武装集団に襲われ、関係者が死亡、選手を含め数名が負傷した。「各チームの移動は、陸路ではなく空路が好ましいと規定に明記されている」。アフリカ・サッカー連盟の言葉が後に虚しく響いた。
同じアフリカの地で、初めて開催されるワールドカップ。自国のチームは最終予選で惜しくも敗退し、念願の本大会出場はまたお預けとなってしまったが、アフリカでこれ以上サッカーにまつわる悲劇が起こらないことを祈りつつ、ザンビアの友人たちは今日も、どこかのチームや誰かを応援し、ときに自らボールを追いかけて、思い思いにスポーツを愉しんでいることだろう。