隣の国での「キック・オフ」

村尾 るみこ

ザンビア共和国西部の、とある村。この村は、西隣のアンゴラまで100kmの距離にある。アンゴラは2002年まで、半世紀近くも紛争が続いた国だ。アンゴラ国境からはやや遠い村であるが、ここにはアンゴラ難民が数人住んでいる。難民は30後半から40過ぎの男性が中心だが、みんなサッカーが大好きである。

ある土曜の午後、ちょっと離れたところから、「ワーーー」という歓声が聞こえた。おばあちゃんが、すかさず「ボーラーよ」と教えてくれた。ボーラーとは、英語のball(ボール)を現地語にした、サッカーを指す言葉である。

村の北側にある広場にいくと、数村からあつまってきた人で埋め尽くされていた。人ごみをわけて前にでた私の目にとびこんできたのは、村の空き家で生活していた難民男性のドミンゴであった。ドミンゴは器用にボールを操り、うまく敵のディフェンスをかわす。そして、ゴールの代わりに設置された小枝の囲いにボールをけりいれた。

再び、大きな歓声があがる。みんな一斉に飛び上がり、ドミンゴを賞賛する。

アンゴラといえは、2006年のワールドカップ・アフリカ予選で、強豪ナイジェリアを下し、アフリカNo.1になった。長く続いた内戦にもかかわらず、アンゴラは80年代からワールドカップ予選に出場し続け、ついにその年、本大会への初出場を果たした。

アンゴラ内戦は、2002年に停戦が合意されたが、周辺国に難民となって避難していたアンゴラ国民は、なかなか母国へ帰ろうとしない。今日、ザンビアに留まるアンゴラ難民は、8万人といわれる。アンゴラでの復興や、彼らの大好きなサッカーについての明るいニュースも、世界が期待するほど簡単には、ドミンゴら難民の意思をかえられない。

ドミンゴらは、紛争が終わる前は、現金を得るために、難民キャンプから出稼ぎにきていた。彼らが村にすむようになったのは、ついその2カ月くらいのことであったが、やがて気の合うザンビアの村びとたちと、1か月に1度の頻度で「ボーラー」をはじめた。

私はドミンゴを訪ねては、いろんな話をきいた。はじめ無口だったドミンゴが、村での時間を重ねるごとに、少しずつ話してくれる。

「ウォー(戦争)が終わるまでは、難民のおれたちが村でサッカーなんてやってたら、びっくりされちゃっただろうよ。だって、難民はキャンプに住まなきゃいけないっていう『ルール』、みんな知っているだろう?難民はキャンプから来て、必要な分働いたらキャンプに帰るものだって思われていたのさ。だから、村にきてもサッカーはやらなかった。短い期間しか滞在しないしね。」

「ウォーが終わるまでは、おれたちはアンゴラが平和になったら帰ることを前提に、難民キャンプのなかで『プロテクション(保護)』されてきた。だから、帰るか帰らないかについて、何もいわなかったさ。ウォーが終わって、おれたちはアンゴラへ帰らない意思を示さないといけなくなったし、そして示せるようにもなったんだ。」

「今、難民キャンプにいたら、アンゴラにむりやり帰らされるかもしれない。だからおれたちは、国連の人やザンビアの人に、『ここにいたい』ってはっきりと意思を示して、村にいる。みんな、ひとまずはそれを受け入れてくれている。気兼ねなく『ボーラー』ができるようになったってわけさ。」

「え?『ボーラー』をすることで、村の人と交流を深めているんじゃないのかって?アハハハハ、ちょっとちがうんじゃないか、なあ?難民だからって、みんながみんな、サッカーをやる理由に特別なものがあるのか?『ボーラー』って、楽しいじゃないか。アンゴラだってザンビアだって、キャンプだって村だって、できるんだったらどこででもやるさ。」

ザンビアの村で「キック・オフ」された彼らの生活は、『ボーラー』とともにある。その生活は、2010年のワールドカップを過ぎても、あの村で続くだろうか。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。