壁のないトイレ(ザンビア)

成澤 徳子

「ねぇ、ちょっとちょっと!またしても、お尻丸見え状態じゃない!!どうしよう〜!?」と、畑の向こうから足早に戻ってきて、トイレットペーパー片手に朝っぱらから大騒ぎ。そんな私のようすを、「もう気付いちゃった?やっぱり駄目!?」と言わんばかりに、皆がニヤニヤ、意味あり顔でやり過ごす。

一年半ぶりに、ザンビアの村を訪れた。私には、昨日着いてから今朝までに、まだ確認していない重要なことがあった。そう、それは日々の生活に欠かせない、滞在先の家のトイレである。私がそのことに気が付いたのは、今回最初の朝を迎え、何の疑いもなく、以前トイレがあった場所に、用を足しに向かった時のこと。

家の前に広がるトウモロコシ畑の小道を抜けて、いざトイレへ!

「こんな小道もやっぱり素敵だな」などと、のん気に思いながら畑を通り抜けた。すると、目的の場所にはただ雑草が生い茂るばかりで、あるはずのトイレがない。焦って辺りを見渡すと、数メートル先に、なにやら新たな建物を発見。近付いて確認すると、壁のレンガが崩れ落ち、中が丸見え状態となってはいるが、それは紛れもなくトイレであった。

そういえば前回初めて来たときも、壁が低すぎてトイレの中は丸見えだった。そのときは、壁に用いるレンガの数が足りなくて、未完成のまま使用されていたのだが、今回のトイレは、どうやら一度完成してから壊れたようす。ともかく、このままでは落ち着いて用も足せない。

「もう我慢できない!!」と騒ぐ私の切迫感は、しかし案の定、さして皆に伝わるようすもない。「大丈夫、誰も見てないから。」「まだ登校時間の前だから、人通りは少ないし問題ないよ。」「第一、今の時季はトウモロコシの草丈が高いから、全く見えやしない。」「もういいから、その辺でしちゃいなさい!っていうか、大なの?小なの?」・・・。

家のトイレ。激しい雨で、 前方の壁が崩れ落ちたままに。

トイレ内のようす。鉄板で できた蓋を、手動で開閉する。

村のトイレはすべてピット型で、ピットが一杯になったら埋め立て、別のところに穴を掘って新しいトイレをつくる。入り口はカタツムリ状になっており、ドアがなくても外から中が見えない構造になっている。屋根は、草葺き屋根がついているトイレもあるが、ついていないものもある。トイレは通常、大きいほうの用を足すときだけ使われる。私は幸い、トイレがある家にお世話になっており、同じ敷地内の9つの家に男女合わせて20人以上が暮らす大家族とともに、敷地の隅っこにある唯一のトイレを共有している。だが、村では畑や藪の中で用を足すのが一般的で、このようなトイレ自体、備えている家は少ない。

代わりのトイレ・スポット探しに右往左往する私に、家のお母さんが声をかける。「ちなみに、同じく雨で壊れちゃった浴室をこの前トイレに改造してみたから、そっちもお試しあれ!」と。気になったので期待をせず見に行ってみたところ、周囲を覆う草壁がすっかり剥がれ落ちてしまった浴室の床には、確かに、敷き詰められた石の間に小さな穴が掘られていた。だがどう考えても、こっちのほうが丸見えではないか。しかも、柱には子ブタが繋がれている。近づくとブーブー暴れ、うるさくて仕方がない。(まるで私のよう!?)

トイレにリフォーム(?)された浴室。

ところで、村の生活には、一般にプライベートと呼べる空間がない。誰がどこで何をしているのか、人々は実によく観察しており、互いに把握している。往々にして、そのような情報交換にも抜け目がない。人は常に誰かと一緒で、家に居ても他人の出入りは頻繁、親しい間柄なら無断の出入りもしょっちゅうだ。村では、他人に隠れて何かをすることなど不可能に近く、常に人目がある生活の中で、唯一、意図的に創り出さなければならないプライベート空間、それがトイレである。

辺りがどこでもトイレになり得る環境では、それ故に、人々は互いの暗黙の了解によって、各々の排泄空間を確保しなければならない。たまに、何の脈絡もなく、一緒に居た人がすっと畑や藪の茂みのなかに消えていくことがある。皆、何も言わなくても「あ、トイレだな」と判断し、見て見ぬ振りを決め込むのがマナーのようだ。そのようすを見た人が、そこに近付かないのは勿論のこと、誰かが来たら、そのことを教えてあげなければならない。皮肉を言えば、村ではプライベート空間を創り出すことにも、他者を必要とするのである。

家のトイレの壁が、お尻丸見え状態にもかかわらず一向に直されないのは、経済的な、あるいは時間的な理由からかもしれない。だが、人々は互いの了解に支えられた「見られることはないだろう」という安心感により、壁などなくてもそれほど困らないのだろう。それでも、「もしかしたら、どこかから、誰かに見られるかもしれない」という不安が私にだけ常につきまとうのは、ドアや壁で仕切られることで、文字通り「完璧」に保障されたプライベート空間に、慣れきってしまっているからなのだろう。

何でも村人のやり方を学びとり、彼/女らとの壁をなくすように努めてきた私だが、トイレから壁をなくすことだけは、正直この先も難しいだろう。私のための修復作業に、また手間をかけさせてしまうことを知りながらも。

急遽、私のために修復されたトイレ。だが次来たら、また壊れていることだろう…。

私がアフリカに慣れるよりも先に、私に慣れてくれた友人たちに感謝している。

ABOUTこの記事をかいた人

日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。