山越えとご褒美(エチオピア)

眞城 百華

 

電車や車に乗ることの多い日本の生活と比べて、アフリカでは自分でも驚くほど歩く。道行く人に場所を訪ねて目的地までどのくらいかかるか聞くと、誰もが「すぐそこだよ」という。それを信じてひたすら教えられたとおりに目的地を目指して歩き出すが、「すぐ」に到着したことなど一度もない。炎天下の中で汗だくになって歩きながら、また「すぐそこだ」という言葉を信じてしまったと後悔ばかりしている。

 

一番つらかったアフリカでの歩きの経験は、同時に最も記憶に残るすがすがしい思い出でもある。目的地の村は岩がちな険しい山に阻まれていて、車が通る道もなく歩いていくしか方法がない。村への道は、岩だらけで歩きにくくさらに勾配も激しい。いつもは「すぐそこ」という現地の人たちが、「あの村に行くには2時間は見ておかないと」、というので私も覚悟を決めた。暑い日差しを避けるために早めに出発することにして、カメラなど機材は腰バックに入れて両手を使えるようにし、山歩きに向いた軽くて頑丈な靴を履いて万全の態勢で歩き始めた。平地でも2000メートルを超える高地の地域からさらに高い山を越えた道をいくので、歩き始めてすぐに息があがってしまう。一緒に村に行ってくれる友人と二人、歩き始めは話していたがいつの間にか言葉少なになる。先の長い道を呪うように見上げながらのろのろと歩いていたら、すぐに後ろから来た数人のおじいさんたちが私たちを追い越して行った。もう75歳くらいなのに、細い足ですたすたと手をついて登らなくてはいけない険しい岩道を登っていく。息をぜいぜいさせながら、尊敬のまなざしでおじいさんたちを後ろから見上げていたら、先を行くおじいさんたちが振り返り何やら話し始めると歩調をゆるめた。どうやら情けない若者たちを見ていられなくなったようだ。おじいさんたちは岩道を歩くのになれない私たちにさりげなく付き添い、歩きやすいルートを教えてくれる。下りの滑りやすい場所では持っていた木の杖を差し出してくれる。腰バックも重たそうだからと持ってくれる。もうその頃には日も高く上り気温も上昇して疲労も倍増している。バックには貴重品が入っているからと断る元気もなくありがたく好意に甘えた。慣れない山道を行くためペースは全く上がらない。今度は10代後半の女の子に追いつかれた。頑丈な靴を履いている私と比べ、彼女ははだしの足にゴム製のビーチサンダルしかはいていない。気を付けないと岩で足を切ってしまいそうだ。さらに彼女は背中に5キロ以上はある砂糖や穀物の入った袋を担いでいる。田舎の親に届けるのだと嬉しそうに言うと、すたすたと私たちを追い越して行ってしまった。またしても重装備をしながら歩みの遅い亀のような自分の情けなさを実感しながら、おじいさんたちに励まされて何とか険しい道を歩ききった。岩山からやっと目的地の村が見えた時の感動は忘れられない。茶色の埃だらけの岩山を抜けると、みどりで青々した輝く村があった。おじいさんたちが、「ここが私たちの村だ。いいところだろう」と誇らしげに村のいいところを次々と挙げる。汗と埃にまみれて息も上がっていたが、村の美しさに疲労も吹き飛んだ。

長時間歩いてのどが渇いていた私が水を求めると、おじいさんたちはいいところがあると私たちをある店に連れて行ってくれた。ローカルビールの店だった。コップ代わりのトマト缶になみなみと注がれたローカルビールでおじいさんたちと一緒に無事の到着を祝った。山道のどこは険しかった、あそこは危ない、初めてなのによく頑張ったと山道の旅を振り返りながら飲んだローカルビールの味は格別だった。

開発が進んで、数年後にはこの村にも車が通れる道ができた。もうあんなに苦しい思いはしなくてもよくなり、おじいさんたちも車で移動するようになったが、ともに山道を越えた経験はいい思い出である。今も村でたまに会うおじいさんたちと、山越えの話で盛り上がる。そしてその話が出ると、決まっておじいさんたちにローカルビールの店に連れて行かれることになる。払いはもちろん助けてもらった私の担当だ。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。