ひとりの母(エチオピア)

眞城 百華

彼女はもう60代の後半くらいになるだろうか。ザフはエチオピア北部の町で3人の子の母として生きてきた。ある日娘が連れてきた私がその町に滞在している間、ザフは毎食ごはんを用意してくれ、家事を一緒にしながら語らい、リラックスした時間を共にした。ザフは私を含めて家族がちゃんとご飯を食べたか、洗濯をした服を着ているか、何か不自由がないかをその大きな暖かい目で遠くからいつも見守っている。

エチオピアの多くの女性がそうであるように、ザフの人生も平穏ではなかった。小さい子供が3人いるのに、夫はよそに女を作って出て行ってしまった。実家から遠く離れたところにいたので家族の助けも得られずに、地ビールのお店を細々と経営しながら子供たちを育てた。夫なしで生きるだけで大変なのに、彼女が生きた時代はエチオピアの激動期でもあった。軍が政権を握ると各地で内戦がおこり、厳しい統制が敷かれた。エチオピアを世界的に有名にした飢饉もおこった。時に親戚を頼って首都に移住したり、また情勢がよくなると村に戻ったりを繰り返した。苦労している母親を見てきた長男は、なんとか家族を支えて母を楽にしたくて、軍に入隊した。自分の友達は圧政を繰り返す軍に対して戦う反政府勢力に参加した。給料がもらえるのは軍隊だけだったから、彼には選択の余地がなかった。母は最初入隊を反対したが、のちにしぶしぶ受け入れた。内戦や飢饉が迫って逃げ惑う日々、息子が送ってくれる仕送りでほかの子供を育てなんとか生き抜くことができた。

ようやく戦争が終わり、反政府勢力が軍事政権を倒して新しい国を作り始めた。平和はありがたいが、敗北した軍にいる息子が気にかかる。16歳から兵士として各地で戦った息子は除隊して生きて故郷に戻ってきた。だが青年期から戦場の過酷な現場をわたってきた息子は、かつてのはつらつとした息子とは別人のようになっていた。平和と新時代の到来で町が浮足立っている時期に、息子は早朝から教会に長い時間祈りに行く。何があったか多くを語らない息子を母は黙って受け入れた。他方で美しく成長した娘に結婚話が持ち上がった。結婚相手は元反政府勢力の兵士で、今は政府の役人となって出世が期待される青年だ。誰もが喜ぶ話だが、かつてその青年がいた反政府勢力と敵として戦ってきた息子の気持ちが気にかかる。弟に結婚を報告できない姉の代わりにザフがそっとその事実を息子に告げた。心に傷を抱えた弟は姉の幸せのために黙ってその結婚を受け入れた。除隊兵士のための教育支援が始まり、時間が止まっていた息子にも未来に向けた一歩を踏み出す時が来ていた。家族団らんの場で、かつて敵同士だった息子と娘の夫が一緒になると時折気まずい空気が流れる。 ザフはこの二人がふたりきりにならないように常に気を配り、さりげなく声をかける。家庭の中に残る内戦の傷跡をしっかり受け止め、でも何もなかったかのよう家族のために料理を振る舞い、コーヒーを淹れる。ザフの暖かいまなざしは気まずい関係にある二人に「私はわかっているから、なにもいわなくていいよ」と言っているようだった。

1998年にふたたび隣国と戦争が起きると、農村でも兵士の強制徴兵が実施された。今度は末息子が徴兵の対象となった。長男のように息子を戦争に送りたくなかった母はこっそり末息子を別の町に逃がした。警察は末息子がいないことを知ると、見せしめのためにザフを牢につないだ。娘の夫が人脈を駆使して牢から出してくれたが、ザフは逃がした息子の安否をいつまでも心配し続けた。のちに政府も強制徴兵の非を認め、末息子は戦地に行くことを免れた。財産があるわけでも、有力な親戚がいるわけでも、教育があるわけでもない。決して声高に自分の意見を主張することもないザフだが、こんなに強い母に出会ったことがない。どうすることもできない政治に翻弄されながらもザフが必死に守ってきたのが3人の子供たちとの生活だ。誰も非難せず多くを語らないが、彼女の中には経験に裏打ちされた確かな幸せの形がある。

写真:ザフ(中央)と長女、長男。近くに住む元夫(左)とも最近は良好な関係だ。

 

長年のザフの苦労を誰かが遠くから見ていたかのように、ある時を境に徐々に彼女の生活が好転し始めた。ザフと3人の子供をおいて去って行った大工の夫が、罪滅ぼしのためか彼女に家を建ててくれた。家の敷地にひかれた水道管が何よりの自慢だ。彼女が身を挺して守った末息子はその後大学まで進学し、大学の教員になった。娘は2人の男の子、ついで双子の女の子を生んだ。母への仕送りのために共働きをしていて小さい子の面倒をみられないと、娘が双子の孫をザフに託しに来た。「やっと3人育て上げたのに、また小さな子を一気に二人も面倒を見なくてはいけなくなったよ」という顔は、言葉とはちがって笑いにあふれている。

兵士だった長男は学校を卒業して商売をはじめ、結婚もし、ようやく人生の再スタートを切った。商売をするにはもっと大きな町にいったほうがいいのだが、長男は決して母の傍を離れようとしない。みんなザフに甘えて頼ってくるので安楽な老後はまだ先のことだが、ようやく彼女の慈愛に満ちた表情に常につきまとっていた不安や心配の影が消えた。人生は一筋縄ではいかないから、彼女の笑顔が曇る日がまた来るかもしれない。でもザフの人となりを知っている私たちにはわかっている。ザフはまっすぐひたすらに幸せを信じて、困難を乗り越え、また再び平穏な生活を取り戻すに違いない。彼女はどこにでもいる名もない一人のエチオピアの女性だけれど、ザフのような母親の幸せを信じる力が激動の時代を最底辺で支えている。