Nature is calling me(エチオピア)

森下 敬子

私は首都のアジスアベバで調査をしていたので、地方に出かける機会はほとんどなかったが、お世話になっている家のお母さんが巡礼に出かけるというので、連れて行ってもらったことがある。エチオピアには2万以上のエチオピア正教会があると言われていて、それぞれの教会の祝祭日には、多くの正教徒たちが巡礼に訪れる。私たちは日の出とともにアジスアベバを発ち、長距離バスを乗り継いで、丸一日かけてそこに辿り着いた。とても小さな教会だったが、その教会の聖水で癌が治るという噂もあってか、200人くらいの信徒が集まっていた。教会は、一番近くの街からバスで1時間以上も登った山の上に建っていて、私たちは教会近くの宿舎のようなところで寝起きしていた。宿舎といっても個室があるわけではない。10畳〜20畳ほどの部屋が3つあるトタン屋根の平屋に、持って来たゴザを敷いて、自分が横になれるほどの場所を確保するだけだ。

私たちは一週間そこに滞在したが、ひとつだけ、とても困ったことがあった。トイレがなかったのだ。

エチオピアの田舎では、野外で用を足すということはよくあるが、不幸なことに、その山には身を隠せるような茂みがなかった。他の人たちは、暗黙の了解があるのか、宿舎から少し山を下った方向にある、決まった場所で用を足しているが、近くを通ると丸見えだ。もちろん、その辺りで人がしゃがんでいれば、何をしているかは決まっているから、みんな他の人を見ないように気をつけながら、自分の場所を見つけるようだが、私にはどうしてもそれができなかった。

しかし、どんなに嫌でも生理現象は自然の摂理だ。私は山を登った。身を隠せるような藪か、もしくは誰も人が通らない場所があるはずだと信じて、遠く遠く歩き続けた。

トイレを求めて山道を登る…

30分ほど歩いて、ようやく人を見かけなくなったと思ったら、前方から男の人が歩いて来る。この辺りに住む村の人だろうか。見慣れない外国人の私が迷子にでもなったと心配したのか、「どこに行くの?そっちには何もないよ」と声をかけてくれる。ずっと尿意をガマンしている私は余裕がなく、「トイレ」とぶっきらぼうに答えると、「そうか」と目を伏せて通り過ぎていった。ようやく行ったぞ、もうこの辺で、と思っていたら、前方から人の話し声が聞こえて、今度は2人連れがやってきた。再び「どこに行くの?」「トイレ」「あぁ」という会話を繰り返してやり過ごす。こんなに歩いても人がやってくるということは、この山の向こう側には村があるのかもしれないと思って、えいやっと覚悟を決め、道から脇に入った。

かなり山頂近くまで歩いたので、眼下は見晴らしがよく、泊まっている宿舎も教会も見える。人が来ないうちにさっさとすませなくては…と少しでも茂みのある場所を探しながら、ズボンを下ろしていたその時、また人の話し声が聞こえてきた。しまった、急いでズボンを履かなくては!とあせっていると、大きな声が聞こえた。「外国人の女の子がトイレに行ってるから、待って。止まって」と叫んでいる。大声でなにやらやり取りをしている間に、私は急いで用を足した。

ふー、よかった、誰にも見つからなかった、とスッキリした気持ちで道に戻ると、道の前方と後方に、10人ほどの人たちが足止めされて立っていた。先ほどすれ違った人が、私が用を足している間、前の道を通らないように、他の人たちを足止めしてくれていたのだ。「終わった?」と聞かれて頷くと、「そうか、よかった」と言っている。私のせいで通行止めに遭ってしまった人たちも、「トイレ?」「終わったの?」と、一人ずつ同じ質問をしてくる。たった数分間とはいえ、私一人のトイレのせいで足止めをくらい、迷惑なのは村の人たちの方だろうが、私も幼児じゃあるまいし、外国人がトイレに行っていると大声で宣言され、しかも見知らぬ人たちにそれを待たれていたのかと思うと、気恥ずかしい気分だった。

その日の晩、宿舎で眠っていると、夜中にお母さんに起こされた。夜中の2時だ。「今からトイレに行こう。今なら外には誰もいないから」という。特にトイレに行きたいわけではなかったが、私のことを心配してお母さんも夜中に起きてくれたわけだしと思って、一緒に外に出た。

おかあさん。「トイレに行く」と言って、1時間以上も帰ってこなかった私を、とても心配していた

月の光だけが照らす真っ暗闇の中、誰にも見られていないという安心感、見渡す限りの大自然。空を見上げるとギラギラと満天の星が輝いていて、自分もこの自然の中に溶け込んでいくような気持ちになる、最高のトイレ。母の愛は偉大だ。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。