戦禍を超えてー「つながる」

眞城 百華

20年調査をしていたフィールドが2020年11月から約2年間、戦争となった。戦地となった調査地ではインターネットは遮断され、電話も不通となった。現地と連絡を取るすべを失い、文字通りすべての「つながり」が突然、断たれた。かたずをのんでニュースを追うしかなかった。

COVID禍でもあり、十分な情報を得られず焦りばかりがつのった。戦禍の実情を伝えてくれたのは、海外に居住する同地域出身の人々であった。留学生や海外に生活基盤を持つ人々がSNSで現地の情報を多数提供していた。もちろん、戦争に関する情報は玉石混交であり、のちになってフェイクであることが判明した情報もある。しかし、どんな情報でも喉から手が出るほど求められていた。同地域出身の海外居住者たちは、戦禍で苦しむ家族や友人を思いながら、支援活動をはじめ、情報共有のプラットフォームを形成し、世界各地で平和を求めるデモを行い、戦時下の家族や友人と「つながろう」と行動し続けていた。

ある夜、就寝中に携帯電話にメッセージが届いた。寝ぼけ眼でメッセージを開いて飛び起きた。戦地に住む友人からだった。戦禍から脱出できたのだろうか、身の安全は大丈夫か、家族の皆はどうしているのか、あまたの質問が頭を駆け巡った。慌てて安否を確認するべくすぐに返信をした。あとで確認したが、国際NGOが運用している衛星を利用したインターネット回線を友人のつてをたよってなんとか使わせてもらいメッセージを送信してきたようだった。家族の安否を伝えようと当時は多くの人たちが国際NGOのオフィスの周りに集まってネット利用を試み、海外や州外の家族とつながろうと模索していた。

戦争による深刻な被害に加えて、戦時下で物価高と物資不足が深刻となり生活がひっ迫している、と窮状が伝わる。戦争後、多くの友人は2年間で10-15キロも体重を落としているほどだった。通信関係だけではなく銀行も閉鎖され、電気や物流も遮断されていた。せっかく連絡がついても支援する道がことごとく閉ざされていた。何とか州境付近に実家のある友人の助けをえて多少の支援をすることができた。その友人との連絡は途切れたり、またある日突然メッセージが届いたりと蜘蛛の糸のようなつながりだったが、つながっていると感じることで心配が昂じて焦る気持ちを多少なりとも静めることができた。

2022年11月に和平合意が結ばれ戦争は終結したが、すぐには訪問できない状況であった。COVIDが落ち着き、国際移動が再開されて私が最初に接触できたのは、海外居住者たちであった。彼/彼女らも家族や友人を思い、戦時下の心配や焦燥感がいかほどのものだったのか、それぞれが自身の経験を語ってくれた。Aさんは家族を守るために留学先のヨーロッパから兵士に志願しようと帰国を試みたが、幼児を含めた子供もかかえていた。留学先の大学の教員から、ヨーロッパでもできることがあると帰国を思いとどまるよう説得された。その後在外コミュニティの代表として人びとをつなぐ役割を担い、支援活動にも従事した。同じく留学先で戦争勃発を迎えたBさんは、伝わってくる戦時下の惨状を知るにつけ、とても学業を続けていられなくなり、大学を去った。Bさんは今もヨーロッパを拠点に戦時性暴力のサバイバーのための支援を粘り強く続けている。

戦争により断絶されたつながりも見えてきた。海外でも、在外コミュニティから戦争が生じた地域の出身者だけが、その出自を理由に追放された。戦争を機に、SNSを通じて出自を理由とした批判や糾弾が繰り返され、民族や出自を超えた友人関係が破綻を迎えることもあった。明らかに戦争に伴うプロパガンダの影響だった。

2023年12月ようやく戦後初めて調査地を再訪した。和平合意後、電話では話していたが、友人たちと再会するのは2年10か月ぶりであった。やっと再びつながれた友人や隣人たちとの再会は、思いのほかいつも通りだった。戦争前に毎年あってはたわいもないおしゃべりを繰り返してきた日常を取り戻すのを友人たちも求めているようだった。コーヒーセレモニーをしながらぽつぽつと会えなかった数年を振り返る。日常を取り戻そうとしつつ、戦争を経た変容を日常のそこここで突きつけられる。

戦争下では政府からの資金がすべて停止され、公務員の給与も止まった。しかし医師や看護師は毎日運ばれてくる患者たちの対応に追われ、無給で2年間病院で働き続けた。看護師として働く友人も驚くほど痩せてしまい、髪の毛も白くなってしまった。

私が戻ったと聞いて集まってくれた友人たちも、国内避難民となり住居を追われて逃げ込んだ避難先のキャンプで熱中症で母を亡くしたり、首都にいながら政治迫害により強制収容所に数か月収容された経験をぽつぽつと話してくれる。私に衝撃を与えないように平然を装いながら、さりげなく伝えてくれる戦時下の壮絶な体験をきいて言葉がつまる。ニュースとして知っていた事実と旧知の友人たちの経験がうまく結びつかない。手をつないだり、肩に手を触れながら、うんうん、とうなづいて話を聞くしかなかった。最後の別れ際のハグはお互いの口にはできない思いを伝え合うように特別長くなった。宿舎にもどってから、友人たちの経験を振り返り一睡もできなかった。

再会が叶った人たちもいれば、もう2度と会えなくなった人もいた。初めて調査地に住み込んだ時に同じコンパウンドに住んでいた彼は、最初に会ったときにはまだ1歳だった。彼の成長とともに私も現地の言葉を覚え、彼は息子の様にいつもそばにいた。思春期になってそっけなくされたけど、18歳くらいになると大人になって私の面倒をみてくれたりした。軍人の父親に促されて兵士として戦争に参加した彼の訃報は、戦争が終わって約10か月後に家族の元に届いた。戦争後に復員する兵士たちも多数いたため、公式な通達がなくても家族も私も彼の身に何が起こったのか、うすうすは感じていた。しかしわずかな希望でも抱いていたくて帰還を待ち望んでいたために、訃報は彼を知るすべての人たちの力を奪った。

戦時下で苦しんだ友人の娘も、情勢がまた悪くなることを恐れてあらゆる人脈を駆使して国を離れる決断をし、私が戻った時にはもうそこにはいなかった。

ふたたび「つながれ」た人びととの関係は、戦争を挟んで何も変わっていないように見えて、すべてが変わってしまったように感じる瞬間もある。頭では理解できても、感情的にとても受け入れられない事実や変化も多々ある。目をそむけたくなる事実にはこれからもまだまだ直面するだろう。だけど戦争とCOVIDで断絶されたかに見えた「つながり」が、つらい時期を超えて再び戻り、また私と「つながり」たいとその経験を共有してくれる友人や知人もいる。他方でつながりたくても、もうつながれなくなってしまった人たちもいることも忘れずにいたいと強く思う。

戦争を現地で同じように経験していない私が、簡単に共感したり理解したといえないほど筆舌に尽くしがたい事件もたくさん生じている。私がふたたびこの地域の人々と前の様に「つながる」ことは容易ではないが、私はこれからもこの地を訪問し続けるだろう。人びとや調査地との「つながり」がどこに行きつくのか、これからも模索を続けていこう。