私達は“レフジー”だ—平和の定着をみつめる人びとの主張—

村尾 るみこ

アフリカでは近年、紛争で「難民」となった人びとの滞在が長期化し問題として取り上げられるようになって久しいが、紛争国周辺で滞在が長期化するのは、どうやら「難民」だけではないらしい。

私が滞在したことのあるザンビアの西側には、アンゴラからきた人びとが多く住む。彼らは、百年以上も前にアンゴラからきた人たちの子孫や、21世紀まで半世紀近く続いた紛争を逃れた人たちである。そうした人たちが混ざりあって、難民キャンプだけではなく、あちらこちらの村で家族と生活している。しかし、村に住む人びとは、法による認定手続きをとらない人が多い。つまり彼らは、たとえ紛争で故郷を追われた越境者であっても、国際機関の支援対象となるような、いわゆる「難民」ではない。

ある日私は、そうした人びとが住むザンビアの村の歴史を聞こうと、その地域へ始めに移住してきた長老の男性を尋ねた。彼は、78歳にして魚釣りも農業もこなし、ユーモアもあふれる人徳者と評判が高い。ひとしきり挨拶を終えて、村人の噂話や不漁についてなどの雑談を交わし、いよいよその地域の歴史に関する質問を切り出すと、彼はニヤッと笑ってこう答えた。

「この地域の人びとは、皆アンゴラからきた“レフジー”さ。ちなみに私は、まだ結婚前の若者だったころにアンゴラからザンビアに移ってきた。畑を開くよりよい土地がほしかったし、アンゴラよりこちらのほうが、植民地政府による税の取立てがやさしかったのでね。でも、なんてこった、ザンビアではじめにすんでいた土地はとてもやせていて、上手く作物が育たなかった。しょうがなく、そこからさらに違う場所に移って、そこで結婚もした。なのに、今度は思うように魚が取れないし、毎日おかずを探すのに苦労した。小さかった子は泣くし、嫁さんも痩せていくしで、結局次なる移動先を探さなければならなくなった。しかもアンゴラへは、戦争で帰れりゃしなかったんだ。そのとき、まだ手付かずの森が広がるという噂を聞きつけてここにやってきたのさ。な?わかるかい、戦争があるから私達は帰らない。そんな私達は、生活する場所を求めてさまよう“レフジー”だろう??」

彼が自分を“レフジー”と主張したことに、私は正直、戸惑った。ラジオや新聞の伝える「難民」は、もちろんかつては、彼らの言語のなかで相当する単語がなかったが、今日では英語の発音のまま、彼らの日常会話でも言及され使われるようになったようである。しかし、ラジオや新聞で知られる「難民」とは、おおかた国際社会や国の法律で「難民」と認定された人たちである。だから、この長老の主張は、難民認定に関わる法律上で認められるものではない。

しかし、この長老は世間で騒がれる「難民 (refugee)」を自分なりに分析し、「難民」の状況をわが身に置き換えて表現している。この長老の “レフジー”という主張は、冗談とも皮肉ともとれるように思えるが、実はこの後何人もの人が、この長老と同じような語りぶりで、自分達を”レフジー”と表現していたのである。

そうして彼らが、自身を“レフジー”として主張するのは、何かしらの支援を要求しているのとも、法の下で「難民」として生きる権利を要求するものとも少し違っているだろう。もちろん,彼らが自分達を“レフジー”と表現するのは、やってきた日本人の理解に沿うように、という彼らなりの配慮がこめられてもいるだろう。しかし彼らは同時に、手厚い支援が向けられる「難民」とは対称的に自身で生活を立て直しつつも、紛争とは無縁でなかった自分や隣人達の来し方を鑑みて、“レフジー”という表現にさまざまな喜びや怒り、悲しみをこめているのかもしれない。

アンゴラ紛争が終わった今日でも、ザンビアにいるアンゴラの人びとのなかにはアンゴラへはいけないという人も少なくない。そうした人びとの間では、アンゴラがまだ「戦争のある」状態で、この状態がなくならないとアンゴラへ生活の拠点を移せない、と語られている。ザンビアの「難民」や“レフジー”は、紛争後の平和の定着へむけて急速な支援と開発のすすめられるアンゴラに対し、さまざまな思いを抱きながら、毎日を送り続けているのだ。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。