自分の名前が落書きの材料になった話 —「読む・書く」

大石高典

自分の持ち物に名前を書きなさい…このような指導は小学生のころから身にしみついている。おまけに、私はモノの管理が苦手で、自宅の中ですらすぐにモノを散らかしたり、なくしてしまいがちである。そんなこともあって、私は大学院生としてカメルーン東部州の農村(ドンゴ村)で調査を始めてからも、ノートはもちろんのこと、身の回りの研究機材にまで名前を書いていた。自分で分かるように「t.oishi」と苗字と名前のイニシャルを組み合わせて書くことが多かった。

それでも、私の物忘れは記名してあるかどうかに関係なく発生した。都会では何かをどこかに忘れると出てくることはまずなかったが、むらの中であれば、置き忘れた帽子や手拭いを子どもが後から届けてくれた。人びとは、そこに書いてある名前などを確認せずとも、私の持ち物をよく知っているようだった。ドンゴ村には狩猟採集民のバカと焼畑農耕民のバクウェレが暮らしているが、いずれの人々も私が彼ら/彼女らを観察する以上に、私をよく観察していた。私の持ち歩くモノに、フィールドの人々にとって見慣れないモノが多かったからということもあるだろう。

しかし考えてみれば、むらで付き合っている人たちは、だれも、身分証明書や学校に通う児童のノートとかリセ(高校)や高等専門学校の制服、病院のカルテ(カメルーンでは、医者ではなく患者がカルテや処方の載ったノートを保管する)といったような役所や公的サービスに関わるものを除けば、名前を書かれているモノを持ち歩く人を見たことがなかった。どんな作業をするにしても、似たような道具やモノがいくつもあるのに、だれのモノかどうやって見分けているのか。鍋も生活道具も分かち合って使うことはあるが、人びとはだれの持ち物なのかを気にしないということはない。モノの微細な特徴をとらえて見分けているのだろうか。日本でも、例えば自分の釣竿に名前を書く釣り人はほとんどいないが、そのために取り違えることはまずない。いずれにせよ、私が何かとモノに名前を書きつけているのが、ドンゴの人たちにはとても奇妙な振る舞いに映っていたのに違いない。

自分でも所有物に名前を書くことになんの意味があるのか分からなくなっていたある時、現地調査の補助をお願いしていた若者のひとりセルジュが、渡したノートに私の真似をして私のサインを書き始めた。遊びである。しかしこれがきっかけになって、「t.oishi」という文字列が、むらの中で小ブレイクしたことがあった。なにか意味のある記号というよりもデザインとして、子どもも大人も落書きに混じって私の名前をどこかしこに書きつけるようになった。いきなり、自分の名前が「NIKE」とか「TOYOTA」のロゴマークになってしまったかのような感じで、とまどった。それ以前にも、滞在した日本人研究者の名前が炭で落書きされているのを単発で見たことはあったが、脈絡なく自分のイニシャルが誰かの家の壁や地面などに書かれるのは恥ずかしかった。

極めつけに恥ずかしかったのが、半年から1年ごとに秘密結社によっておこなわれるベカと呼ばれる男子割礼の重要な儀礼の一場面であった。この儀礼で新たに割礼を受けて結社に入団する少年は、儀礼の前に3日3晩白い粘土で身体にペインティングをされて通りを練り歩く。なんと、その少年の中に、頭の側面にでっかく「t.oishi」と書かれた者が何人かいたのである。最悪である。私は割礼をしておらずベカの結社員ではないので、もしも儀礼を冒とくしたとかと言われたらどうしようか(非結社員が不用意にベカ儀礼に関わったら強制的に儀礼を受けさせられる決まりがある)。私は勝手に不安と恥ずかしさを感じて焦っていたのだが、周りの人々は必ずしも「t.oishi」と私という人格を結び付けて解釈する様子でもないのだった。

このイニシャルの(私にとっての)風変わりな流行は2か月くらいで収束したが、私と村のひとびとの間で、文字を書くことや文字から読みとることの感覚がどこか違っている気がした。文字や記号には、意味を伝える表象言語の側面と、デザインや絵、つまりアートとしての側面がある。この両者のバランスが自分とはずれているように感じたのである。

ところで、バクウェレ語では手紙のことをmekana(メカナ)といい、紙のことをkamekana(カメカナ)という。ka(カ)は葉っぱのことなので、直訳すると「手紙を書く葉っぱ」という意味になる。日本では、タラヨウ(Ilex latifolia)の大きな葉の裏に文字を書いて送っていたという話があるが、アフリカの森にも字が書ける大きさの葉を付ける植物はいくらもある。紙を葉に喩えるのは理解しやすい。紙は村では貴重品だが、人びとは紙以外のいろいろなものにイメージを「書く」(写真)。

写真: あるバカの青年の板葺きの家。「気に入ったTシャツのデザインを真似してみた」と言う。

 

ドンゴ村の住人は、狩猟採集民も農耕民も、かつては森と村を行き来するより遊動的な暮らしをしていた。落書きは、平面の多い定住集落で当然多くみられるが、森の中では植物に落書きをする。乾いた樹皮はカンバスになるし、山刀で生きている樹木の幹に名前や絵を刻むこともする。樹皮につけられた傷は、そのうち盛り上がって固くなる。樹木が枯れるまで残るだろう。

私たちは、文字や記号を読み書きすることを当たり前のようにやっているが、やっていることの中身は世界を見渡すと違うのかもしれないのである。私の名前が落書きの材料になった話は、そんな違和感のきっかけになった。この問題は、10年近く経って私が行っている、世界のさまざまな地域の顔文字や顔認識の比較研究につながっている。研究の途中までの展開は以下の雑誌のコラムにまとめてあるので、関心も持った方はぜひご一読いただけたら幸いである。

 

高橋康介、田暁潔、大石高典、島田将喜、錢琨(2021)「顔とemojiのフィールドワーク――異分野融合のフィールド実験で「顔を見る/読む/描く」に挑む」『Field+ : フィールドプラス』25:23-25. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所.