新天地を求めて(カメルーン)

山口 亮太

2010年8月、カメルーン共和国東南部での3回目のフィールド調査も残すところ2週間程度となった頃のことであった。下宿先の大家夫婦は朝から畑に出ており、僕は一人で家に残り、書きためたフィールドノートを読み返し、整理を行っていた。調査対象は、コンゴ共和国との国境沿いに居住するバクエレと呼ばれる農耕民である。

彼らの8月は、何かと忙しい。高く売ることができる野生マンゴーが実をつけはじめるため、一家総出で森に入って、採集にいそしむ家族もある。また、多くの人がカカオ畑の手入れを行うのもこの時期である。カカオ栽培は、この地域での主要な現金獲得手段であり、ほとんど全ての住民が何らかの形で関わっている。僕の大家夫婦も、この時期は連日カカオ畑に通って草刈りをやっていた。

昼頃に、大家の妻の弟がふらりとやって来た。彼のあだ名はトントンという。「トントン」とはフランス語で「おじさん、おじちゃん」という意味である。20代前半にもかかわらずこんなあだ名で呼ばれるのは、彼の本名が彼の母方オジと同じだからである。彼は、手にアフリカフサオヤマアラシ(バクエレ語ではグオーブという)を持っていた。自分のカカオ畑の草刈りをやった後に、畑の裏の森に仕掛けてあるはね罠の見回りに行くと、獲物がかかっていたという。

カカオ畑の草刈りの様子。雑草を根元から切るためには、中腰で重たい山刀を振り続ける必要があり、非常につらい仕事である。
棒を手に持つのは、身体を支えるためのほかに、草をどける熊手として使うため、そして、藪に潜む毒蛇から身を守るためでもある。
 

トントンと僕の二人でヤマアラシのトマトソース煮込みを作りながら、鍋を囲んで何となく雑談が始まる。話題は、カカオ畑の草刈りである。彼は、このところずっと畑で草刈りをしているので疲れたらしい。「金があったら,バカ(狩猟採集民)を雇ってササッと終わらせるんやけど」と愚痴をこぼす。カカオ畑を全部一人できれいにするのは大変なことで、可能であるならば何人か人を雇って手伝ってもらうのが理想である。しかし、8月のこの時期に、人を雇って働かせられるほどの現金を持っている人は、そういるものではない。僕は、トントンに対して「仲買人に前借りを頼んだらどう?」と尋ねた。収穫の時期前後になると、仲買人と前借りの交渉をすることは、珍しいことではないためである。すると「連中はこの時期に助けてくれへん」と、なんだか投げやりな返事が返ってきた。「カカオを乾燥させる時期になったら、いきなりやって来て、『Petit, c’est comment? Je viens?(あんちゃん、どないや?そっち行こうか?)』て具合や。俺のことをちょっとでも知ってるんかって言ってやりたいわ」と、彼は続けた。カカオの仲買人は、カカオの実がまだなっていない時期に、そう簡単に金を貸してくれるような連中ではないらしい。しかし、収穫が始まると急に愛想良くなって、呼んでもいないのに向こうからやってくるのだ。現金なものだが、彼らも商売でやっているのだ。

その後、完成したヤマアラシのトマトソース煮込みを食べながら、二人でとりとめのない話をしたが、内容は良く覚えていない。そして、2010年のフィールド調査は終わり、僕が次にカメルーンに来たのは、翌年2011年の暮れであった。村でトントンに会えるかと期待していたが、彼はもう長く戻っていないということであった。何でも、首都のヤウンデにいる母方オジのところに下宿しながら、タクシードライバーをやっているらしい。帰国間際のヤウンデ滞在時に、トントンとあうことができた。彼は、タクシードライバーではなく、何かの会社のお抱え運転手をやっているということであった。しかし、拘束時間が長い割に、収入は良くないと嘆いていた。次に僕がカメルーンに戻った2013年の初頭には、トントンはヤウンデにも村にもおらず、今度はコンゴ共和国のウエッソで出稼ぎをしているらしい、という情報しか得られなかった。ヤウンデでの運転手業は、どうもうまくいかなかったようだ。しかし、それでも村で落ち着いて暮らす気にはならなかったということなのだろうか。

実は、彼のように平気で都会に出稼ぎに行くことは、カメルーンの東南部に住むバクエレではそれほど多くない。彼らは、しばしば自嘲的に、自分たちが田舎者であり、都会に行っても詐欺に遭って、有り金を全部巻き上げられてしまうだろう、と語る。そのため、慣れない都会で出稼ぎをするよりは、村で地道にカカオ栽培をやっている方がいいという若者も少なくない。そもそも、自給用の畑があるため食べるのには困らないし、まじめにカカオ栽培をやっていれば、バイクや発電機を手に入れることもできるのだ。トントンのように、首都にまで出稼ぎに行くというのは、かなりレアなケースなのである。

彼には、この地域のバクエレには珍しい点がもう一つあった。多くのバクエレがキリスト教諸派のいずれかの教会に属しているのだが、彼はムスリムに改宗していたのである。カメルーンの東南部には、経済的な機会を求めてカメルーン北部や隣国のナイジェリア、さらにマリなどからやって来たムスリムたちが多く居住している。トントンは、カメルーン北部から出稼ぎにやって来たムスリムの漁撈民たちと親交が深く、彼らから漁の技術を学んだ。そして、彼らの勧めに従って、ムスリムに改宗したのだという。

しかし、どうして彼はムスリムに改宗したのだろうか。何となく、聞くことがためらわれて、ずっと質問できずにいたのだが、最後にヤウンデで会って話をしたときに思い切って改宗の理由をたずねてみた。彼の返事は、「キリスト教は、ヤヤコシイからな」というものであった。僕は意味がくみ取れず「ヤヤコシイ?」と聞き返した。彼は「そう。キリスト教には、その、呪術とか、色々とあるからね」と、ややためらいがちに答えた。

ムスリムにも呪術はあるので、彼の発言はよく考えると理由の体をなしていないように聞こえる。しかし、今から思えば、彼のこの発言は、村の中での人間関係のことを述べていたのだということがわかる。トントンは、異母兄との間に問題を抱えており、彼の呪いを常に警戒していた。ひょっとすると、そういう人間関係のしがらみから抜け出すためのムスリムへの改宗だったのかもしれない。そして、彼が都会へ出て行くことに躊躇がないのも、そのことの延長ととらえられるのではないだろうか。

カメルーンの東南部国境地域は、それほど開発の進んでいない地域であり、今はまだ、トントンのように都会での生活を志向する若者は多くない。しかし、少しずつ交通やインフラの整備が行われはじめており、それに伴って、人々の流動性は高くなり、バクエレにおいても経済的な機会を求める出稼ぎが一般的になるかもしれない。そんな中で、今後、村での生活に生きにくさを感じ、新天地を求めて都会へと向かうものたちもまた増えるのだろうか。