たちつくすロバ (ボツワナ)

丸山淳子

青い空。赤茶けたカラハリの乾いた大地。真っ黒なアスファルトの道路が、はるか遠く地平線までまっすぐにのびている。アフリカのなかではとりわけ道路事情に恵まれているボツワナ。新米運転手の私でも、ついついスピードがでてしまう。町から少し離れると、対向車にはめったにあわないし、道路を歩く人々とすれ違うこともめずらしい。気をつけなければならないのは、突然飛び出してくる野生動物と家畜たちだけだ。

野生動物はすばしっこく、逃げ足も速いから、あっというまに視界から消えてしまう。でも家畜と車の衝突事故は多発している。大きな牛とぶつかりでもしたら、車はまちがいなく大破だ。動きの読めないヤギもこわい。群れが道路を横断し終えたと思って、スピードをあげようとしたとたん、なぜかあわてた数匹がもういちど車道へと出てくるのである。しかしなによりもやっかいなのは、ロバだ。ロバは車に気がついても、逃げようともしない。あのやたらと悲しそうな目でこっちをみたまま、道路の真ん中でたちつくしている。しかたがない。車の速度を緩め、ロバの前で止まる。クラクションをならすと、ようやくのっそりとうごきだす。そうでなかったら、こちらが避けてやるしかない。

ブッシュマンの子どもたちは、ロバを上手にのりこなす

ブッシュマンたちは、そんなロバの様子を見ておかしそうにいう。「あいつら、車が登場したせいで、自分たちの仕事がなくなったから、ああやって車にむかって“1プラ(注)、ちょうだい”っていって、つったってるんだぜ」。ボツワナでは、車が普及する以前は、ロバとロバがひく荷車こそが道路をつかうべき正統な「乗り物」だったのだ。なのに、時代はうつりかわり、ロバたちは田舎に追いやられ、道路は車だけのものになってしまった。だから、今ではロバは失業し、あとからきた車に物乞いするしかなくなったのだといって、ブッシュマンたちは笑うのである。彼らの動物に対する「見立て」には、いつも感心する。わたしは、ひとりっきりの退屈なドライブの最中でも、ロバと遭遇するたびに、この話を思い出してくすくすと笑うようになった。

だけど、この話には、もうすこし続きがあった。あるとき、いつものようにロバが車の行く手を阻み、「1プラくれっていってるぞ。」と同乗していたブッシュマンのおじさんが笑った。そして続けて「俺たちと一緒だなぁ。俺たちもあとから来たやつらに、1プラちょうだいっていうよなぁ」とそのおじさんは、さもおかしそうにつぶやいたのだった。南部アフリカの先住の民であった彼らは、今では、この国のなかではもっとも「貧しい」とされる民族だ。故郷は気づけば、国立公園として立ち入りを禁じられ、彼らはその公園を訪れる観光客の車に向かって、半分冗談半分本気で「うちの子に飴をくれ。そうでなかったら1プラくれ」と言う。だからこそ、1プラを乞うロバの様子は、あんなにも彼らの笑いを誘うのかもしれない。ロバの姿に自らを投影させ、それをも笑い飛ばしながら生きるブッシュマンたちに思いを寄せながら、それでも私は彼らの住むこの定住地まで車を飛ばしてやってくる。おじさんのつぶやきを聞いてから、私はたちつくすロバを見ても、なんだかもう笑えなくなってしまった。

だからというわけではないが、私はときどき車をお休みして、ブッシュマンたちにロバを借りてのってみる。ロバはきまぐれで、のろのろで、目的地にはなかなかたどりつかない。そのうえ、のり慣れないロバにまたがる私の姿は無様で、かならずみんなの笑いものにされる。だけど、そんなロバの背にゆられて見るカラハリの景色は、時速120キロ以上で駆け抜ける車から見るそれよりも、ずっとずっと美しい。

(注)ボツワナのお金の単位。1プラ=約22円(2006年)

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。