ピリじいちゃんの旅(ボツワナ)《!koõ / 行く / グイ語》

丸山 淳子

「!」この記号が、単語の後ろについていたら、何を意味するだろう?そう、通称「ビックリマーク」といわれるように、強調や感嘆だ。私たちはごく日常的に使っている。では、単語の先頭についていたら…?

「!koõ, !koõ, !koõ, !koõ, !koõ…..」木陰にすわったピリじぃちゃんは、いつも楽しそうに昔の旅の話をしていた。この集落で一番の長老ともいわれる彼は、もう眼も見えないし、歩くこともできない。けれど、その口から飛びだすリズミカルな言葉たちが、力強く野生動物を追っていたころの彼の姿を生き生きと伝えてくれる。たとえば「行く」を意味する!koõを、何度も重ねることで「行って、行って、行って…」と、広大な原野をはるか遠くまで駆け続けた様子が、まるで見えるように鮮やかに描き出される。それを木陰に集った孫たちが、聴くともなしに聴いている。私の好きな時間だった。

ピリの語る昔話は、一つ一つの言葉の意味がわからなくても、ぼんやり聴いているだけでも、リズムといい、音の響きといい、居心地がよかった。この耳に心地いい語りを彩るのが、語頭につく「!」である。「!koõ」なら、「!」は、コ(ko)と同時に、舌を尖らして上あごのあたりで舌打ちすると出る「ポン」という音をたてることを意味する。この音が、原野の旅を続けた若かりし頃のピリの軽やかな足音を表しているように、私には聴こえた。

ピリじいちゃん

この舌打ち音は「クリック音」と呼ばれ、ピリの話すグイ語をはじめとするコイサン諸語を特徴づけるものとされている。コイサン諸語は、南部アフリカに早くから暮らしていたブッシュマンとよばれる人が話す言葉としてよく知られている。グイ語に使われるクリック音は「!」のほかに3種類、全部で4種類ある。いずれも舌を巧みに用いて、チッとかキャッといった軽快な音を立てる。グイの人びとは、もともと文字をもたないので、言学語や人類学の文献では、さしあたって、「!」「|」「||」「ǂ」4つの記号を当てはめてクリック音を示すことにしているのだ。

クリック音は、ブッシュマン語話者ではない人とっては、たいそうとっつきにくい。ピリの息子夫妻にお世話になることが決まり、初めてこの家で暮らすようになったころの私も苦労した。言葉がほとんどわからない私に、ピリは、そんなことはお構いなしにいつも話しかけてくれた。その言葉を、私は鸚鵡返しにしてみたけれど、それすらクリック音を正確に出せず、なかなか伝わらなかった。どうしてこんな言葉を話す人たちのところに来ちゃったんだろう。自分で好んでやってきたくせに、しばしば私は途方にくれたものだった。

それでも、ピリは、片言どころか発音さえおぼつかない私に、来る日も来る日もあきらめることなく話しかけていた。そのなかでも、長い長い昔話のなかに頻繁に登場する「行って、行って、行って・・・」という言葉は耳に残った。それに、私が立ち上がる気配がすると、いつも少し心配そうに「どこに行くんだ?」と聞いたものだった。だから「行く」は最初に覚えた。!koõ, !koõ, !koõ, !koõと、夜寝る前に一人で小さな声で練習したりもした。「!」のクリック音は、あとの3つに比べると、比較的発音もしやすかったし、なにより音の響きも美しいように思えた。私のすぐ隣の小屋で寝ていたピリは、その声を聴きつけると、それにこたえるかのように、なにやらつぶやいていた。でも、それがなんだったのかは、当時の私には、もちろんなにも理解できなかった。

そのピリも、数年前に亡くなった。私が日本に帰っているあいだのことだった。村で一番の年長者だったし、大往生だったというから、悲しむ必要はないのだろう。でも、今でも、!koõという言葉を発するたびに、原野の旅を問わず語りに語っていたピリの姿を思い出す。この地になじんで、一人で村のなかを歩けるようになってからも、私が立ち上がる気配に反応して、かならず少し心配そうに「どこへ行くの?」と聞いたピリの声を思い出す。今なら、だいぶグイ語が聞き取れるようになったら今なら、きっとあの長い長い昔話も、私に話しかけてくれたたくさんのことも、そして夜中のつぶやきも、きっと少しは理解できるのに。ピリじいちゃん、今は私のほうが聞きたいです。「ねぇ、いったいどこへ行ったの?」ちゃんと「!」の音を響かせて、ピリのいない木陰でくつろぎながら、ついそう話しかけたくなってしまう。