「わたしたち」の使い分け(ボツワナ)《Ate/わたしたち/ガナ語》

丸山 淳子

「ワタシ、イキマス」。ようやく絞り出したのに、わたしの片言のガナ語は、きまって訂正されたものだ。「違うでしょ?わたしたちは行きます、でしょ?」ガナ語は、南部アフリカで話されているコイサン諸語のうちの一つで、ボツワナのセントラル・カラハリ地域にくらすブッシュマンと呼ばれる人びとが使っている。

コイサン諸語は、クリック音、いわゆる舌打ち音があることで有名だ。たとえばガナ語のガナという音は、||ganaと表記されることがあるが、この「||」がクリック音を示している。このクリック音は舌の両側を奥歯につけて離すときに出る音で、これと「ガ」を同時に発音して、語頭の音をつくる。ちなみにガナ語には、これ以外に3種、計4種類の異なるクリック音が使われている。リズミカルに響くクリック音は美しいけれど、調査を始めたばかりのわたしには、それを聞き分けることも、発音することも、とてもハードルが高かった。毎日、どうしてこんなところを調査地に選んでしまったのだろうかと、後悔してばかりいたものだ。しまった、クリック音の話をはじめるとつい長くなってしまう。しかしこの話は、別の機会に譲ることにしよう。

そう、問題は「わたしたち」である。この「わたしたち」という言葉も、慣れないうちは、かなり厄介なのだ。なにしろ、「わたしたち」が2人なのか3人以上なのか、さらに男性だけなのか女性だけなのか、あるいは男女混合なのかによって、それぞれ違う単語があてられるのだ。つまりこれだけで6種類の「わたしたち」がある。ちなみに「あなたたち」にも「彼/女たち」にも、同様に6つの言い分けがある。

そのうえ「わたしたち」の場合、さらに加えて、話している相手を含む「わたしたち」と含まない「わたしたち」に分けられる。つまり「わたしたちはごはんを食べました」というとき、話しかけている相手も一緒にごはんを食べていた場合と、その相手のいないところで、別の人びとと食べていた場合とでは、別の「わたしたち」を用いるのだ。

具体的には、アテ(3人以上・男女)、アセ(3人以上・女)、アッキャエ(3人以上・男)、アケビ(2人・男女)、アシベ(2人・女)アツィビ(2人・男)の6種が、話しかけている相手を含む包含形、そして語頭のアがイに代わると、話しかけている相手を含まない除外形となる。つまり合計すると、12種類の「わたしたち」があることになる。いやはや、ここまで説明するのでさえ大変だ。

さて、それを使いこなすためには、当然のことながら、細心の注意が必要になる。「わたしたち」の範囲はどこまでか、具体的には誰と誰のことなのかということをいつも意識して、使い分けることが求められる。誰が含まれているのかあいまいにしたまま、なんとなく「わたしたち」って言っちゃった、みたいなことはできないのだ。

気をつけて聞いていると、彼女たちはとっても自然に、そして素敵に、この言葉を使い分ける。たとえば「わたしたち/イシベ(2人・女・除外)、これから木の実を採りに行くの」と言って、「わたしたち/アセ(3人以上・女・包含)、木の実を採りに行くのよ」と返されたら、わたしたちみんなで一緒に行きましょう、という意味だ。

最初の頃、わたしにはこれがほんとにできなかった。すぐに混乱してわからなくなり、しかたなく冒頭のように「わたし/キレ」と自分だけしか指さない言葉を使ってしまう。すると、話しかけた相手は、敏感に反応する。「え?あなた1人で行きたいの?」。ちがうの、ほんとは、あなたたちとわたしと、女子3人で行きたいの。そう、それならアセ(3人以上・女・包含)といわなきゃいけなかったのだ。

少し慣れてきて「わたしたち」を使えるようになってもトラブル続きだ。そんなつもりじゃなかったのに、「あ、男の子たちも誘って一緒に行く?」と聞かれたりする。その場にいたのは女性だけだったのに、ついうっかり男女混合のわたしたち、アテ(3人以上・男女・包含)を使ってしまったからだ。

人称代名詞は、雑に扱ってはいけないのだ。一人一人の顔をちゃんと思い浮かべ、場面を想定し、なるべく具体的に話すのだ。そんな会話の仕方は、人間関係に注意深く気を配り、いつも個別性、具体性を大事にするサンの人びとらしい気がする。すこしずつだけど、「わたしたち」がうまく使えるようになっていったわたしは、そのたびごとにそんな彼らに近づいたような気がして、嬉しくなった。

ところが、最近、奇妙なことに気がついた。たとえば、お世話になっている家の父さんと、その友人、そして小学生の娘と一緒に、薪採りに出かけたときのこと。帰り道、薪を運びながら、娘が父さんを見上げて言った「わたしたち、さっきここを通ったわよね」。父さんが立ち止まり、びっくりしたように答えた。「さっきここをとおったとき、父さんたちも、おまえといっしょにいたぞ。」娘は、わたしたち/イテ(3人以上・男女・除外)を使っていた。

父さんが「アテ(3人以上・男女・包含)だろ?」といってきかせているあいだに、娘は聞いているのかいないのか、さっさと歩きだしてしまった。父さんと、その友人、わたしは互いに顔を見合わせて、首をふった。いつもは物覚えが悪くてため息をつかれているわたしも、大人ぶってため息をついてみた。でも、それからも、子どもたちが、包含形と除外形をうまく使わけられないまま「わたしたち」と言っている場面に、わたしは何度も遭遇することになった。

子どもたちの通う学校では、この国の国語であるツワナ語と英語が使われている。残念ながら、話者人口が数千人にすぎないガナ語は、消えゆく言語だとさえ言われ、学校をはじめ公の場では使用されない。この子たちが、将来、政府機関や企業で働きたいのなら、ツワナ語や英語は必須というのが現実だ。この二つの言語の「わたしたち」は、ガナ語ほど精緻なものではないし、包含形と除外形の区別もない。そんな言語に慣れ親しんでいくうちに、ガナ語がすこしずつ単純化されていっているのかもしれない。

もちろん言葉は、時代とともに変わるものだ。「最近の若い者は…」なんて、どんな時代でも、どんな場所でも聞かれるフレーズだ。わたしだって、日本では「見れる」とか「全然ある」とか言っては、見識ある大人たちの眉をひそめさせてきたではないか。ガナ語は文字を使用しないし、彼らが使える教科書もないけれど、だからといって、そうしたものに頼らなければ「正しいガナ語」が伝えられないなどいう気は毛頭ないし、なによりようやく少しばかりガナ語を話せるようになった私が、知ったかぶりをして「貴重な少数言語を保護せよ」などと声高にいうのはなんだか気恥ずかしい。

それでも、わたしは、子どもたちの使う「わたしたち」をついたしなめてしまう。あいかわらず片言のガナ語を話しているのに、そこにだけこだわるわたしは、きっとまちがいなく奇妙だ。そして子どもたちが、それをまじめに聞いているふうでもない。だけど、いつかこの子たちが、ツワナ語や英語を使いながら、もっと広い世界に旅立っていったとしても、なにかの折に、自分たちの親や祖父母が話してきた言葉の奥深さに改めて何か思うときが来るのかもしれない。そういえば、変なやつがやたらと言ってたなぁ、「違うでしょ?わたしたち/アテでしょ?」と。ガナ語を学び始めたころ、毎日のように誰かに言われていたフレーズを、そっくりそのまままねて、繰り返している変なやつが。