「あれは、いかがなものか」「どう考えても、ありえないな」口達者なおじいちゃん達が白熱している。「だいたい、すごく急いでいるときに、先客がいたらどうするんだ?」「そうだ、そうだ、そこにしかないんだぞ。ほかではできない。え?もらしちゃうのかい?」おじいちゃんたちが、膝をたたいて大爆笑をする。彼らは「衛生」「清潔」をかかげてトイレを普及させようとするNGOの集会から戻ってきたばかりだ。集会では神妙に話を聞いていたのに、家に帰ってきてお茶を飲み出した途端、トイレを標的にし始めた。「なによりもだ、一番よくないのは、俺のモノと嫁さんの両親のモノとが、トイレの中でまざっちゃうってことだ。きたなすぎる。とんでもない!」。大笑いしていた一同が、すっかり真顔になる。「それは、本当によくない。ちっとも“きれい”なんかじゃないぞ、そんなこと。」冗談半分で始まったこの話題は、次第に真剣みを帯びてくる。
こうした個々人の「トイレ・スポット」が誰かと重なることなど、ほとんどなかった。見渡す限り、低灌木がひろがり、乾いた風が吹いている。腰をおろすのに適当な木陰はいくらでもあったのだ。それだけではない。とくに自分の夫や妻の両親といった敬意をもってつきあうべき姻族と、同じ場所を使うなんていうことにならないように、さりげなく気をつけていたのである。それこそがなによりも「きれい」なことだった。
ところが、いまでは1500人もの人口を抱える定住地に、彼らは集住している。毎日の「トイレ・スポット」探しは、そんなに楽ではない。それこそ「すごく急いでるとき」は、大変だ。「トイレ・スポット」になるはずの藪はどんどん限られ、日に日に遠くなっている。薪として使われてしまったり、家畜に食べられてしまったりして、減り続けているのである。そのうえ人々がしょっちゅう往来するので、おちついてもいられない。この場所は、ちょうどいい、と思うと、誰しも思うことは同じだ。先客の跡があり、がっかり。フンコロガシだけではとても追いつかないのである。
だから、もちろんおじいちゃん達だって、今の状況が良いわけじゃないことを、身をもって知っているのだ。トイレさえつくれば、少なくとも「トイレ・スポット」探しの苦労からは解放される。そして、定住地の周囲、至るところが「トイレ・スポット」になってしまったこの状況が続けば、病気の発生や蔓延だって避けられなくなってくる。実際、トイレを自分の敷地内に建て始めた世帯も、少ないながら現れてきた。しかしトイレは、彼らが大切に考えてきた、人と人のあいだの適切な関係など、考慮しない。排泄物は排泄物でしかなく、それが誰のものか、というのは関係ないのである。
定住し、教育と医療にアクセスすることこそ、よりよい生き方だと言われ、おじいちゃん達は、定住地に住まざるを得なかった。その挙げ句、この「トイレ・スポット」問題だ。そして、その解決策として提案されたトイレは、一方で、彼ら自身が培ってきた「きれい」を隅に追いやろうとしている。それでも、おそらくこのままでは、いずれトイレを受け入れざるを得ない日が来るだろう。そのことに、とっくに気づいているおじいちゃんたちは、だからこそ、さっきから憤っているのだ。