見えないけど、一緒にいる:カラハリケータイ談義(ボツワナ)

丸山 淳子

「ねぇ、ハローって言って。ハローって言ってったら!」 コモチョが私にまとわりつく。コモチョは、私がお世話になっている家のおかあさんの姪にあたる。6才になった彼女は、3人の姉たちから存分にかわいがられて育った。100キロ離れた町の中学校に通う、一番上のお姉ちゃんは、彼女のために、いつもおみやげを持って帰ってきてくれる。そのおみやげのひとつ、ケータイの形をしたおもちゃを耳にあて、コモチョはさっきから、私に「電話ごっこ」をせがんでいるのだ。

数十年前までカラハリの原野で狩猟や採集を営みながら生活していたブッシュマンは、今では政府のつくった定住地に暮らす。コモチョも、この定住地で生まれた。ここには病院も小学校もあるけれど、そうは言っても、カラハリ砂漠のはずれに、ぽつんとつくられた定住地だ。電気はなく、電話線がひかれていないのはもちろんのこと、ケータイの電波だって届かない。だけど、最寄りの町にいけば、固定電話よりもよっぽど手軽なケータイが、しっかりと普及している。それを、彼らが知らないわけではない。


アフリカのどの街角でも、ケータイの広告が目につく(ザンビア)
 

「コモチョ、ケータイっていうのは、そういうもんじゃないのよ。遠くにいて見えない人に、ハローって言うためのものよ。」 おかあさんが、私からコモチョを引き離しながら、諭している。そういう彼女も、初めて町でケータイを使っている人を見たとき大層驚いたらしい。 「後ろから来た人が、何か話しかけてきたから、振り向いたら、ひとりで大笑いし始めたのよ。私は、この人、どうしちゃったんだろう、と思って見ていたら、その人は耳に何かをあてながら、ずっとひとりで話し続けて、行ってしまったの。でもちがうのよね、あとから教えてもらってわかったわ、ひとりでいるようみえるけど、アレはふたりでいるってことなのよね。見えないけど、一緒にいるのよ。変なものだわ、ほんと。」

すると、離れた木陰に座っていたおとうさんが、会話に加わってきた。「俺たちはずいぶんまえから、そういうのを知ってるぞ。ほら、あれだ、トビウサギの猟だ。」夜行性のトビウサギは、昼間は砂のなかにつくられた巣穴深く休んでいる。狩りには4メートルもの長い棒を使い、それを巣穴につっこむ。そして、棒の先端につけられた金具で、休んでいるトビウサギをとらえるのだ。うまくとらえられると、ひとりが獲物を逃がさないようにと、棒をしっかり握りしめ、もうひとりが、トビウサギがとらえられている場所の検討をつけ、穴を掘って、ようやくしとめることになる。そのあいだじゅう、棒を握っている人は、穴のなかでトビウサギが逃げようともがく、ビクッビクッという動きを、棒を伝って感じることになる。それは魚を釣りあげるときの感覚にも似ている。おとうさんはそのことをいっているのだ。


手前のおじさんが握る棒の先に、今まさにトビウサギがとらえられている(ボツワナ)
 

「俺はトビウサギが見えない。トビウサギも俺を見えない。でもその棒で、お互いがいるってことがわかるんだ。見えなくても、互いに伝わりあう。ヤツは、俺に、にげるぞ、にげるぞ、っていってくる。俺は、逃がさないぞ、逃がさないぞって、棒を固く握りながら伝えるんだ」こんな話聞くとき、彼らにとって狩りとは、単なる食物獲得以上の、自然とのあいだのある種のコミュニケーションではないかと思う。もちろん狩りに成功すれば「食うー食われる」の関係になるのだけれど、その過程には電波を使って言葉を届けあうケータイと同じように、猟具を通じてメッセージを届けあう対等な者どうしの駆け引きが生じているのだ。

アフリカ中を席巻しているケータイが、この定住地で使われるようになるのと、コモチョ達がオトナになるのと、どっちが先だろうか。彼女と日本にいる私とが、「見えないけど、一緒にいる」関係をもつ日もたぶんそんなに先のことではないはずだ。その頃、彼女の弟や息子たちは、トビウサギとどんな関係をもつのだろう。ケータイも使いつつ、一方でトビウサギとのコミュニケーションも続けるような、そんな未来はあり得るだろうか。

そんなことを思っていると、ハロー、ハローというかすかな叫び声が聞こえる。目をこらしてよく見ると、おもちゃのケータイを耳にあてたコモチョが、遠くの木に隠れながら、私にむかって一生懸命叫んでいた。