巾着バッグのつくりかた(ボツワナ)

丸山 淳子

ダオノアは、あまり話さない人だった。村の中心部にもめったに出てこなかった。毎日のように狩りに出かけ、そして仕留めた動物の皮を丹念になめして、きれいな皮細工をこしらえて、静かに過ごしていた。急激に変わる時代の流れのなかで、気負うことなく、昔ながらの生活を続ける老人だった。カラハリ砂漠の狩猟採集民として知られるブッシュマンの、いかにもそれらしい姿を体現しているようにも見えた。

初めて会った頃、めったに笑わない彼が、私はすこし怖かった。でも、一緒に暮らしてみれば、なにもできない私を常に気遣い、私が関心を示すことを察知し、いつもさりげなく優しかった。原野に出れば、彼は誰よりも強くたくましく、手ぶらでは帰ってこない狩りの名手だった。けれど、そんな彼もカメラを向けられるのは、怖かったようだ。小さな声で「雷(フラッシュのこと)はつくらないでね。」とつぶやき、手にした皮細工からけっして顔をあげることはなかった。

狩りから戻り、みなが満腹になるころ、彼は、いつも、そそくさと、皮なめしの作業に取り掛かった。カラハリの熱い砂に、細い木の棒をいくつも差し込みながら、皮をぴんと張っていく。やがて皮が乾くと、残っている肉片、脂、場合によっては毛も取り除く。そのあとで、スイカや木の根を使って、染色しつつ、なめしていく。こうして美しく整えられた皮は、彼の手で、狩猟用のバッグや、敷物、衣類などに形を変えていく。

ひと針ひと針丁寧に縫い合わせられたそれらは、本人が使うこともあれば、贈り物になることもあったけど、その多くは土産物として、遠くの町に売られていった。彼にとっての重要な現金収入源だったのだ。とはいえ、ダオノアは、お金のためというより、皮細工がほんとに好きだったようだ。暇さえあれば、何かをつくっていた。


ある日、ダオノアが、わたしを訪ねてきた。新しくバッグをつくったから、買わないかという。私のような外国人がきっと気に入るはずの品だと、買って帰って友だちへ贈り物にしてはどうかと、いつもはあまり話さない彼が、少し興奮したように説明してくれた。それは、いろいろな種類の皮をきれいにパッチワークした、小ぶりの巾着バッグだった。たしかにかわいい。針の目も丁寧で、なにより、巾着のかたちが愛らしかった。

ところが、この巾着バッグ、口の部分がすこししか開かないのである。本来なら大きく開くはずの口が、ほとんど閉じた状態で縫い合わせられていて、開閉の幅がとても小さい。聞けば、ダオノアは、観光客の女性が、この形のバッグを持っているのを見て、まねてつくってみたのだという。このバッグにはカメラを入れたり、ノートを入れたりしたらいいと、嬉しそう話すダオノアを遮るのは心苦しかったけれど、しかたない。ほら見て、これじゃ、カメラもノートも入らないよ。

ダオノアは、すっかり黙ってしまった。彼は巾着バッグを遠くから見ただけで、その仕組みをあんまりよく理解していなかったのだろう。カメラもノートも持っていない彼は、それらが、小さな口にはいるサイズではないことが、あまりわかっていなかったのかもしれない。私は、自分のもっていたタオルを使いながら、巾着バッグの仕組みを、拙いながらも説明してみた。結局、ダオノアは、もうほとんど話さないまま、バッグを持って帰って行ってしまった。

数日後、ダオノアはまたやってきた。手にしていたバッグは、このあいだと同じものだった。でもよく見ると、きれいに修正され、今度は口の部分が大きく開くようになっていた。私の説明がうまく通じていたようだった。カメラが入るかやってみろというので、やってみせると、大きくうなずいて、満足そうな笑みを浮かべた。そして、いつになくしみじみと言った。「ジュンコは俺たちの言葉が上手になったなぁ。こうやって、おまえの考えていることがよくわかるようになって、嬉しいよ。」

私は、彼の言葉がなによりも嬉しかった。私たちは、こんなにも遠く離れたところで生まれ育ち、まるで違う世界を生きてきたように思えるけれど、それでもお互いがわかりあうことができるようになってきた。私は、彼のおかげで、そういうことがあるという可能性を心から信じられるようになった。はるか遠いカラハリに、毎年毎年通っていたのは、このためだったんだと、そのとき、私は腑に落ちた気持ちになった。

ダオノアは、もうこの世にいない。昔ながら暮らしをかたくなに守っているように見えた彼だが、実に柔軟に新しいものを受けいれていく彼の姿こそが、「ブッシュマンらしい」と、今の私なら思う。彼のつくった巾着バッグは、結局、友達への贈り物にはしなかった。あのときの嬉しい気持ちと一緒に、私の手元に残った。