ザンビアで搗く、といえば、主食のシマ(練粥)をつくるときに行われることが一番に思い浮かぶ。ザンビアのシマといえば、トウモロコシでつくるのが一般的だ。植民地期、植民地政府によって、都市部や国内の銅鉱山の労働者向けにトウモロコシ生産が推奨されて以降、トウモロコシでつくるシマは国民食となっている。しかし、国内のなかでも乾燥した地域や、隣国との国境に近いところでは、トウモロコシ以外の作物が主食になっている。同じザンビアでも、降水量は500ミリ以上差があるし、各作物の伝播経路や、人の移動史とも関連して、地域ごとに様々な作物が食べられている。
【写真1】 シマを調理するため、トウモロコシを搗く子供たち
私がよくいくザンビア西部の村では、キャッサバが主食である。アジアではタピオカとも呼ばれるこの作物は、トウモロコシと同様、南米起源である。キャッサバは、16世紀にアフリカ大陸に伝播して以後しばらくアンゴラ西部をはじめ沿岸部で栽培されていたが、18世紀以降、序々にザンビアの内陸部にも伝播したといわれている。
ザンビア西部の村で私が一緒に過ごしたンブンダとよばれる人びとは、もとはスーダン西部の王国に起源し、アフリカ起源のシコクビエやトウジンビエを栽培しながら南下したという説がある。そして18世紀当時はコンゴ民主共和国からザンビアとアンゴラの国境付近に居住していた。こうして彼らは、今日までの移動の過程で、キャッサバを栽培するようになったのであるが、ンブンダの人びとの場合、居住域の自然環境など様ざまな要因が重なって、アフリカにもともとあった「雑穀栽培」の文化からキャッサバ栽培中心のものへ移り、主食も変化したといえる。
アフリカでは、日本で売られる「タピオカココナツミルク」のように、キャッサバがデザートとしてはなかなか登場しにくい。ザンビア西部の村で、キャッサバは、シマに調理する主食食材となるほか、販売用にも用いられる。
また、登場する機会が大変稀ではあるが、キャッサバとラッカセイでつくる軽食ビブンドゥ(bibundu)がある。ビブンドゥは、デザートというより、小腹がすいたとき、もしくは昼食がわりに食べる軽食である。この軽食ビブンドゥは、水に浸して毒抜きしたキャッサバを焼いたものと、鉄板で炒ったラッカセイを一緒に木臼で搗いたものである。これは、収穫したキャッサバをシマに加工する途中のものを使った軽食である。つまり、水に浸しているキャッサバを小川から取り出し、シマにするために皮をむき、ござに広げる作業の傍らで、皮をむく前に焼いて、ラッカセイと混ぜて搗く。搗くときには、シマのために乾燥した板状のキャッサバを搗く「コン、コン、コン」という音とはちがい、「ドン、ドン、ドン」と、少し重たい音が響く。同じキャッサバを「搗く」音でも、この音を聞くと、「待ってました」とばかりに、心が躍る。
【写真2】 水に浸した後のキャッサバ。この後、ビブンドゥを作るため、皮をつけたまま焼く。
【写真3】 ラッカセイを炒るお母さん
キャッサバとラッカセイを混ぜるように搗き終わった後、木臼をのぞくと、白いキャッサバの団子に荒く粉砕されたラッカセイが程よく混ざっている。最後に、味付け。この味付けは塩である。調理法も味付けもシンプルであるが、焼けたキャッサバと炒ったラッカセイの香ばしさが食欲をそそる。また、脂肪含有量の少ないキャッサバは、ラッカセイと混ぜるとほどよくおなかにたまり、食べごたえのあるものとなる。私はつい食べ過ぎてしまい、ごはん(シマと副食を組み合わせたもの)の時間になってもおなかがすかず、「ごはんはいらない」と言っては、お世話になっていた家の女性たちにしかられていた。念のために付け加えれば、この軽食がでた日には、ビブンドゥの食べ過ぎで、ごはんを食べられないと言い出す村びとが、私のほかにもちらほら出現する。
【写真4】 ビブンドゥ
軽食ビブンドゥは、土日、みんなが外出せず、家でのんびりしているときにつくられる。みんな好きなので、誰かがこの軽食を作るために木臼を搗きはじめると、わらわらと木臼のまわりに人が集まってくる。そして搗きあがったとたんに、みんな一斉に手をのばして「ちょうだい」といい、搗いている人を困らせる。そうしてせっかくできた軽食ビブンドゥは、たちまちなくなってしまう。
もしかすると、こうした「たまにつくるおいしいもの」は、雑穀中心の食文化であったときも、存在したのかもしれない。とはいえ雑穀を使った料理は、今日ンブンダの人びとの食事にほとんどみられなくなってしまった。確かに、アフリカでは今でも見られなくなってしまう料理があるし、また新たに生まれる料理があるのは事実だろう。それがよいことかわるいことか、という考えに至る以前に、この軽食をみんなと一緒に食べながら、私は彼らの移動の歴史も噛みしめていると、いつも思う。少なくとも、ビブンドゥの味は、かつて彼らが営んでいた雑穀中心の食生活から変化した後の、今だからこそ味わうことのできる味であり、それをみんなで待つ楽しみもまた、新たな形で生まれているのだと思う。
村のみんなは、今日もまた祈っている。どうか、次に聞くキャッサバを搗く音が、「ドン、ドン、ドン」でありますように、と。