アフリカン・ブレッド(ザンビア)

村尾るみこ

ザンビアでは、特にここ10数年の間にどんな田舎町のマーケットでもずいぶんいろいろなものが売られるようになってきた。店舗数も増え、来客数も着実に増加している。それとあわせて、ちょっと買い食いして歩きながらでも手軽に食べられる軽食、スナックも、さかんに路上で売られるようになってきた。

しかしザンビアでは国内の外食産業があまり発達してこなかったことに加え、 手軽に食べられるようなスナックとなる加工品の種類がもともと少なかったようだ。 にぎやかになる町の変化と並行するかたちで、各地域でとれる農産物や採集してきたものがそのまま、もしくはいくぶん加工された形で売られるようになってきた。

そんなスナックのなかに、トウジンビエという穀物でつくった 平べったいパンのようなものがある。 地元の人たちは、はじめは冗談めかして「アフリカン・ブレッド」と 教えてくれた。 このアフリカン・ブレッドには、私はアフリカで多くのものをつかむきっかけを見出した 思い出が詰まっている。

マーケットの賑わい

雨季の村でのある日、もうずいぶん日が高くなった午前のことである。 「今日はアフリカン・ブレッドをつくるから、午後はうちに見に来なよ。」 隣の家のおばさんとその娘さんが、 そういって私を誘いにやってきた。 私がアフリカで初めてその村に住みはじめて、 ようやく10日ほどたったころのことである。

「アフリカン・ブレッド?」 それはなんだ?と聞いてみたが、 うろ覚えの現地語を総動員しても彼女たちの説明はわからない。 説明してくれる言葉の端々に、「トウジンビエ」「砂糖」「煮る」という単語が出てきたのはわかったのだが・・・ またも自分の語学力にうんざりしながら、 私はともかく午後に訪問することを約束した。

午後、英語のわかる少年ととなりの家を訪問すると、 娘さんが赤ん坊を背負いつつ大量のトウジンビエの粉を運んでいた。 その横でおばさんは、歯を使って砂糖の袋をあけている。 私をみると、にっこり笑っていすを持ってきてくれた。 拍手を打って挨拶を終えると、 おばさんは「日本にこれはあるか?」と聞いてトウジンビエの穂と粉を見せた。 「それと似たものがあるけど、これはないよ」と少年を介していうと、 「あなたは今日、これを使ってアフリカン・ブレッドを作るのよ。 日本に帰るときはこれをもって帰って、お父さんとお母さんに作ってあげなさい。」

それから彼女は大きなおけの中にトウジンビエの粉と砂糖を混ぜて入れ、水を足していった。その横で娘さんが腕まくりしてこねている。そのまま30分ほど生地を寝かせると、 厚さ1センチ程度まで伸ばして形を整え、四角いアルミ桶を火にかけて、そのなかで蒸しはじめた。 一回で調理した生地に用いた粉の総重量は約5キロ、砂糖は1キロにもなった。

そうして出来上がったのは、 灰色をした平べったいパンともよべないような代物であった。 口当たりは粗いトウジンビエの粉でざらざらしていて、 砂糖の甘さではなく穀物の甘さがよく出ていた。 「甘いもの」に飢えていた私は、かなりあっさりと食べきってしまった。

「トウジンビエは今年うちの畑でとれたもの。砂糖は町でかってきた。 このブレッドを売って、娘の赤ん坊の服を買うのよ。」 そういっておばさんと娘は、5キロの粉がなくなるまでこの作業を繰り返した。 すべてを調理しきったのは、日が暮れてずいぶんたってからである。

翌朝、彼女たちは近くの町のマーケットへ売りに行く、といって 私のテントの入り口にやってきた。 眠さと戦いながらテントをでると、 おばさんは「ほら、あんたの朝ごはん」といって アフリカン・ブレッドを一つくれた。

アフリカン・ブレッドは、バナナ1本の値段とそうかわらず安価で、 かなり腹持ちがよい。子供から大人まで、男女ともに人気がある。 ただトウジンビエは近年多くは生産されなくなってきているので、 これを売る人もずいぶん少なく、町で見かける頻度は少ない。

町の病院や教会、県庁、学校で働く人々は、 11時半から13時過ぎごろを中心にマーケットへやってきて、 思い思いのスナックを選び購入する。 アフリカン・ブレッドや揚げパンは、売り子さんが新聞紙の紙にくるんで 渡してくれる。それを皆、それぞれの職場へむかいながら、またマーケットを散策しながら、そのままかぶりつくのである。

私は今でもこのアフリカン・ブレッドをマーケットで見つければ 懐かしんで必ず買ってしまう。 トウジンビエのスナックを買う日本人はめずらしいので、 売り子さんは面白がってもう一個おまけをくれたりする。 私は思わず別の売り子さんのところで買ったバナナをお返しに差し出しながら、 必ずアフリカで生活を始めたばかりのころを思い出す。 当時は何もかもが順調というわけではなかったけれども、 招いてくれた親子との交流をきっかけに、 こうしてさらに多くの人と話すはずみをつけることができたように思う。 いつしか自分の不細工な現地語はどこまでマシになったのか、 そんなことも気にしていられなくなっていったようにも、思う。

このアフリカン・ブレッドの作り手・売り手となる人びとは、作る途中や売る途中で食べたりする。だが、自分たちで食べるためだけにつくる人はいない。 村の人びとにとってマーケットにスナックを売りに行くことは、 現金を稼ぐという目的のほかに日常のなかの楽しみを得ることでもある。 そうして販売の傍らで自分の売るスナックを楽しみながら、稼いだお金で違うスナックを楽しんだり家族で使う日用品を物色する。それ以外にも、村の外のものの流れを村の外で体感する、ひとつの機会でもある。一方で私にとってアフリカでのおやつの時間は、そうして移ろうザンビアの地域経済の変化と、少し気恥ずかしい思い出をかみ締める時間なのである。

ABOUTこの記事をかいた人

日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。