ザンビアの西側には、西隣のアンゴラから移住してきた人びとが住んでいる。 特に20世紀半ばから始まったアンゴラでの戦争を避けるため、 多くの人びとが難民となって逃げてきた。 2002年にようやく戦争がおわり、国連による帰還事業がおこなわれたものの、 いまだ混乱の続く故郷には帰らずにザンビアで生きる道を探る難民も少なくない。
そうした難民のなかには、ザンビアの村で生活している人びともいる。 なぜ村で生活するのかと聞くと、 「自分たちが難民キャンプにいれば、政府や援助機関によって いつ戦争のおわったアンゴラに強制的に帰されてしまうかととても不安だから」 というのだ。 こう考える難民の一部の人びとは、ザンビアの人びとが暮らす村へと移ってきて、 その村を足がかりに職を探そうとしている。
ザンビアの人の畑仕事を手伝うアンゴラ難民
村へ移る難民が頼るのは、以前、キャンプから出稼ぎにきたときに 雇ってくれたことのあるザンビアの人だ。 まずはその人の家のまわりの東屋や空家を借りて、居を構える。 そこを拠点に、毎日職を求めて村の家々を訪ねてまわる。
ある若い男性の難民は、父親と友人をつれて 以前畑仕事に雇ってくれた村の人のところへやってきた。 彼らは帰還事業の終了前に村へやってきて、 そのままキャンプへ戻らなかった。 その数ヵ月後、若い難民男性は村の女性と結婚して、かりている家での新婚生活が始まった。 妻をもったその男性は、いよいよ現金を稼がなくてはならなくなったのだ。
といっても、難民が得られる職はとても限られる。 高額な労働許可書を購入しない限り公職には就けないためだ。 たとえ村で農作業などの季節労働が得られたとしても、 その賃金はザンビアの人の相場より2割ほど安い。 さらにザンビアの国籍をもたない難民は、県境を許可なく越えられないため、 西部の辺境から国の経済の中心地へと移動することすら難しい。 こうした事情がさらに彼らのビジネスチャンスを少ないものにする。
「それでも俺たちは戻らない。あそこ(アンゴラ)にはまだ『マタ(戦争)』があるのだ。いつか『マタ』がなくなる日がきたら?そのときは帰るかもしれないし、帰らないかもしれない。でもどちらにしても、当分はザンビアで生活したいんだよ。」
ザンビアの人びとがでそうした難民をみるまなざしは、 暖かいとも冷たいともいいがたい。 ザンビアの人びとは、村に滞在する難民を理由もなしに追い払わない。 しかし難民とは他のザンビア人と同じように気軽に接したり水浴びをしたりするといった親しい関係をもたずに、ちょっと遠巻きで様子を探っている。
これまでザンビアの人びとは、 難民を寛容に受け入れていると評価されてきた。 しかし、故郷に帰らず村で生活しようとする難民は やはり村のなかで何かよそよそしい雰囲気を感じさせる。
ザンビアの村ではいろんな民族集団が混ざって住んでいる上に、 パスポートをもたないまま村の一員として住むことは、 国境がない時代からの流れでそんなに珍しいことではなかった。 けれども村びとの意識のなかでは、 法で「難民」として認定をうけている者はその村の一員ではない、 と考えられている。
そうした村の人びとのまなざしのなかで、 結婚したばかりの若い難民男性は 今日も職を求めて村の家々を訪ねてまわる。 彼らが村の一員となって、 職と安住を手に入れる日は、まだ少し先になりそうだ。