バレリアばあちゃんの「あだ名」の秘密(タンザニア)

近藤 史

夕暮れどき、戸外から「Hodi, Hodi!(ごめんください)」と呼びかける声がする。窓からのぞくと、中庭の片隅に大柄の女性が見える。ちょっと強面で、杖を手にしていても迫力満点の姿は、隣家に住むバレリアばあちゃんだ。私が調査を終えて一息ついたころを見計らって、今日も酒場へ誘いにきたのだろう。

バレリア・チェングーラは1927年生まれ。2000年に初めて彼女に出会ったとき、すでに70歳を超えていた。「食事をつくってあげる相手(夫)は死んでしまったし、足が悪くなったから、遠い畑にはもう行かない」と言いつつ、屋敷畑でクワを振るう姿はかくしゃくとしていた。当時、村の行政官を務めていた彼女の息子の家に居候してフィールドワークをはじめた私は、バレリアを「おばあちゃん」と呼ぶようになり、かれこれ15年ちかくお世話になっている。

写真1:バレリアばあちゃんと、亡夫の弟たち。

 

バレリアばあちゃんは地酒が大好きだ。仲の良い友人たちと酒を囲んで語らうのは、もっと好きだ。バレリアばあちゃんにかかると、昼間、畑で村人の後を追いかけて、「いま、なにをしているの」「なんで、そんなことするの」と質問攻めにした私は、「フミの質問に答えるのは疲れるのだから、みんなにお礼をしなきゃいけない」ということになる。言葉巧みに酒場に誘われて、いつも酒をおごるはめになる。

最初のうちは酒場に行っても言葉がわからず、毎夕のねだり攻撃に辟易としていたが、やがて、一日の終わりに酒を囲んで人々とよもやま話に興じるのが私の日課になった。酒場には若者が集うディスコから、ビールや蒸留酒を揃えるバーまで、客層の異なる店が7〜8軒並んでいるが、バレリアばあちゃんの好む店には古老がたくさん集まっていて、大きなカップにそそいだ酒をのんびりと回し飲みしている。畑では腰をおちつけて聞くのが難しい村の歴史や昔の暮らしについて、じっくり教えてもらうのにぴったりだった。

写真2:日曜日はおしゃれをして、教会で祈ったあと、友人たちと酒場で過ごす。真ん中がバレリアばあちゃん。

 

そんな酒の席で、ときどき聞こえてくる、気になる単語があった。客から「あの外国人は誰だい?」と聞かれた店の女将が、「日本人の学生だよ。ピルヘンベーレの息子のところに住んでいて、彼女の孫みたいなもんさ」と答えている。あるいは、雑貨屋に立ち寄るバレリアばあちゃんと別れて一足先に入った店で、なじみの客から「今日はピルヘンベーレと一緒じゃないのかい」と声をかけられる。「ピルヘンベーレ」がバレリアばあちゃんを指すことはすぐにわかったが、あだ名の由来がわからない。

どんな意味があるのか聞かせてほしいとせがむ私に、あるおじいちゃんが、「ベナ語でピルヘはreturn、ムベーレはbackの意味だ、わかるだろう?」といった。首をかしげる私に、「彼女は結婚したけど『昔に戻ったひと』だ」と、別のおじいちゃんが説明を加える。「離婚したか、旦那さんが亡くなって、別の人と結婚したってこと?」と私。「違う、違う」と苦笑する男性陣。すると、横で知らん顔をしてお酒を飲んでいたバレリアばあちゃんが、「そんな教え方じゃダメさ、フミは察しが悪いんだから」と言って、ゆっくりと語りはじめた。

「私が1941年に結婚したことは、このあいだ教えただろう。それから15年のあいだに、6人の子どもを授かった。ひとり産んで、2〜3年たったら次の子どもを産んで、っていうふうにね。そのうちひとりは、ほとんど乳を飲まなくて、生まれてすぐに神様のもとへ召されてしまったけれど、ほかの子どもたちは元気に育っていた。ところがね、あるとき病気と怪我でみんな相次いで死んでしまった。そう、たった1年のあいだの出来事だったよ。あっという間さ。最後の子どもが亡くなった日は、気が狂ったように泣いて泣いて、『子どもを産む前にもどってしまった』と泣き叫んだ。それから、みんなが私をピルヘンベーレ(昔に戻った人)と呼ぶようになったんだ。」

この話を聞いた私は、悲嘆にくれる女性に追い打ちをかけるような酷いあだ名だと驚いた。「おばあちゃんは、ダメな母親だと非難されたの?」と気色ばんだ私に、バレリアばあちゃんは溜め息をついて、こう続けた。「フミや、おまえが両親からvumiliaという名前をもらったのと同じことだよ。」

そう言われて、ようやく気が付いた。タンザニアでは、子供に負の意味を持つ名前をつけることがある。たとえばスワヒリ語の「sida(困った)」「tabu(困難)」などだ。Vumiliaも「忍ぶ・耐える」という意味をもつスワヒリ語で、名前に使われることがあり、ベナ語ではfumiliaと訛って発音される。こうした名前は、妊娠・出産時の困難を乗り越えて生まれたことを言祝いだり、あるいは試練を克服して成長することへの願いを込めて、子供につけられる。バレリアばあちゃんは、すべての子どもを失った悲しみを乗り越えて幸せをつかむ(子供を授かり、子孫繁栄する)ことができるようにと、新しい名前を授かったのだった。

新しい名前を付けてもらったおかげで、それから生まれた3人の子どもはみんな成人して、孫はもっと増えたと嬉しそうに酒を飲むバレリアばあちゃんの姿からは、半世紀前の悲劇の陰はみじんも感じられなかった。

2012年2月、私が大学院を卒業して教員になり、はじめて学生をつれて村を再訪したとき、無事に就職できたことを一番喜んでくれたのがバレリアばあちゃんだった。私の手を両手で握りしめて、上下にブンブンと振りまわし、手にキスの雨を降らせて、「おまえは何年も何年も、ほんとうによく頑張った。名前のとおりだ。」と褒めてくれた。「遠い日本から来て苦労したぶん、実りは甘いよ。」「なんにも知らなかったおまえに、あらゆることを教えて育ててきた私たちも、ついに“果実を食べる”日がきた。」いつものおねだりが始まりそうな言葉だったが、ふと、たくさんの子供を亡くしてきたバレリアおばあちゃんの「孫」への想いの深さに思い至り、胸が熱くなった。私の恩返しはこれから。まだまだ長生きしてほしい。

写真3:日本人の学生にかご編みを教えるバレリアばあちゃん。