人との会話は生活の必須要件(動詞「話す」)

藤本 麻里子

今日一日、誰とも一言も話さなかった。

現代日本社会で一人暮らしをしている若者にとっては、あるいは中高年層の人々の中にも、こういう一日を経験している人は珍しくないかもしれない。私が独身で一人暮らしをしていた30代前半の頃には、そういう日が週に1度や2度はざらに、場合によっては週の半分くらいあった。

接客や販売など、人と接することが前提の職業やアルバイトに従事していれば、仕事上そういうことはないかもしれない。でも、まだ定職についておらず、日々研究論文の執筆や研究データの分析等をしながら過ごしていたポスドク時代の私は、そういう日が結構な頻度であった。そもそも、私は大勢の人と賑やかに過ごすことよりも、少人数の気の合う人とゆっくりお喋りするほうが好きな性格だったことに加え、必ずしも研究室に出向かなくとも、自宅でできる人文・社会科学系の研究テーマだったこともあり、自宅で一人研究活動に勤しみ、誰とも話さない日はかなりの頻度であった。

研究室に出向かなくとも、買い物やその他所用で外出はしていたのだが、スーパーでの買い物、ATMでのお金の引き出し、近くの街に出かけてウィンドウショッピングをするなどの行動をとっていても、結局誰とも話さずに一日を終えることができてしまうのが現代の日本社会だ。人と直接会話をしなくとも生活上困ることがないのは、ある意味とても便利な社会なのだろう。とはいえ、一日誰とも言葉を交わさなかったという事実を思い返す時、不都合は何もなかったはずなのに、なぜか不安を感じてしまうから不思議だ。

日本ではそんな生活を送っていた私だが、毎年必ず研究のために訪れるタンザニアでは、一日誰とも話さない日など起こり得ない。長年通っている調査地の村に到着後はもちろん、首座都市ダルエスサラームやザンジバルの国際空港に降り立つだけで、急にタンザニアモードに切り替わる。必要以上に言葉を交わさなくとも、パスポートを提示して入国手続きを行い、手荷物を受け取り、空港係員の指示にしたがって保安検査を受ければ、空港の外に出られる。しかし、ここはタンザニア。空港の荷物管理スタッフ、保安検査スタッフ等の英語での問いかけにスワヒリ語で返事をすると、相手はスワヒリ語ができる外国人に驚き、たちまちお喋りが始まる。
「タンザニアに住んでいるのか?」
「これからどこに行くんだ?」
「家族はどこにいるんだ?一人で来たのか?」

などの問いかけに始まり、日本から来たと言うとすぐに
(両手で拳を作って構えながら)「空手はできるか?ぜひ教えてくれ」
「日本は今、寒い季節なのか?」
などと、会話が膨らむ。タンザニアでは、なぜか日本人は皆空手ができて、殴り合いのケンカが強くて、ジャッキー・チェンみたいな身体能力を持っているというイメージが定着している。ジャッキー・チェンは日本人だと思い込んでいる人も多く、違うと話すと驚かれる。

このように、必ずしもその時、その人(空港スタッフ等)と、その会話をする必要性がなくとも、気軽にお喋りが展開されるのがタンザニアだ。そして、それがなぜか心地よい。日本で同じことが起こったら、つまり、空港スタッフに荷物検査を受けている時やその前後に、突然他愛もない会話、例えば「観光ですか?」「一人旅ですか?」「○○(行先の地名)ではどこに行かれるのですか?」などと声をかけられたら、多くの人が戸惑い、驚き、煩わしさを覚えるだろう。中には機嫌を損ねたり、クレームを入れたりする人まで出かねない。でも、タンザニアだとそんな風には感じない。この違いは一体どこからくるのだろうか。

調査村に行く道中、乗り合いバスを利用するが、その停留所でのバス待ちの時間や移動中の車内でも、見ず知らずの人といくらでも会話が弾む。私が誰かと言葉を交わすのを見て、スワヒリ語が話せるとわかるや、周囲の人があれこれ話しかけてくる。そして、お喋りをしているうちに、待ち時間も、乗車時間もあっという間に過ぎてしまう。最近はザンジバルでもスマホが普及し、乗り合いバスの車内でスマホ画面を見ている人は確かにいる。でも、特に連れでもない偶然乗り合わせた隣の席の人に画面を見せて笑いあったり、あるいはテレビ電話で会話していたりで、日本のように完全に一人の世界に浸って、いわゆる“話しかけないでオーラ”を出しているような人はほとんど見かけない。

調査村に到着してしまえば、会う人皆が私の近況を尋ね、再訪に対して歓迎の言葉をかけ、子供の成長や家族の健康について尋ね、温かな時間に包み込まれる。用事がないから、あるいは急いでいるからと庭先にいる人の前を、挨拶もなしに通り過ぎることなどあり得ない。挨拶だけで通り過ぎようとすると、呼び止められて2,3の会話に付き合わされるのがお決まりだ。村の小さなキオスクでの買い物時にも、その行き帰りの道中でも、出会う人とは必ず言葉を交わす。これは私が日本から来た特別な客人だからではない。村人同士でも、あるいは別の村や地域から行商等で来ている新参者とでも、すぐに用件以外の会話が始まるのだ。水汲みのために井戸で順番待ちをする女性たちによる、文字通りの井戸端会議は、日々タンザニアの農漁村で繰り広げられている。

ザンジバルの漁村でまさに井戸端会議中の女性たち

 

また、火を分けてと、マッチやライターを切らしている家の女性が、隣家に台所の火種の炭をもらいに訪れたり、ちょっと鍬を貸してと農具を借りに来たり、トマト切らしたから分けて、と食材をもらいに来たりということもよくある。今の日本社会では、隣家に行くより24時間営業のコンビニやスーパーに行く人が大勢だろう。あるいはすぐ食べられるものをデリバリーしてもらえば済む。日本社会はどんどん個人化、IT化、効率化の方向に進んでおり、その便利さは享受する一方で、何か不健全なものを感じてしまうのは、私が若者ではなくなったことだけが原因だろうか。衣食住を満たすのに、対面での会話という要素を省いてしまうことが、今の日本、特に都市部では可能になりつつある。対照的に、タンザニアでは人との会話は生活の必須要件と言っても過言ではない。

もし、現代日本社会の方向性である、個人化、IT化、効率化が社会にとって素晴らしいことなのであれば、冒頭の状況に不安を感じる必要性はないはずだ。いつか、一日誰とも一言も話さずにあらゆる欲求が満たされる日を理想的な日と思える日が来るのだろうか。少なくとも、私にとっては誰とも話さずスーパーやコンビニやATMだけで事足りる生活より、台所の火を起こすという小さな行為のためだけにも、隣人を気軽に訪問し、その会話で特に実利的な情報の伝達がなくとも、他愛ない会話に満ち溢れているタンザニアの生活のほうが断然心地よく感じられるのだ。