エドワードの就職奮闘記 (タンザニア)

岩井 雪乃

日本では、就職活動といえばある程度パターンがあります。インターネットや職安で求人を探し、企業が開催するセミナーや説明会に参加する。企業に履歴書を送り、何度か面接をして採用に至る。服装は黒いスーツ。髪は茶髪は許されず黒くなければならない・・・などなど。

しかし、タンザニアでは、そのような決まったパターンはありません。そもそも求人の口は極端に少なく、あっても情報が公開されるほうがめずらしいし、新聞広告ぐらいしか情報源はありません。日本のように新卒採用や会計年度に沿った、わかりやすい「採用の時期」といったものもなし。では、みんなどのようにして職をみつけているのでしょう?このエッセイでは、エドワードの場合を紹介します。

村に帰ったときのエドワード(左でイスに座っている)。こんな車を運転するドライバーになりたいな・・・

 エドワードは、2003年度と2004年度に「セレンゲティ・人と動物プロジェクト」で支援していた若者です。彼に対しての支援は、旅行会社のドライバーになるための技術研修でした。
03年 運転免許Eクラス(自家用車のみ、商用車は運転できない種類)の取得費用
04年 運転免許Cクラス(商用車を運転できる)の取得費用
05年 英会話学校(3ヶ月コース)の費用

エドワードは両親がおらず、たった一人でタンザニア第一の都市ダルエスサラームで暮らしているので、アフリックからの支援の合間も仕事をしなければ生きていくことはできません。これまでの彼の仕事の見つけ方は・・・

㈰自動車整備工場で丁稚奉公(2002年)

母親を失い、父にも見捨てられたエドワードは、セレンゲティの村で親戚の家や親切なママのいるバーの一角などを転々としながら、苦労しながらも自力で小学校を卒業しました。2002年、仕事で村に来ていたガレージのボスが、不幸な境遇のエドワードを不憫に思い、ダルエスサラームの自分のガレージで、住み込みで働かせてくれることになりました。給料は少ないながらも、寝る場所に困らない生活になりました。

しかし、はじめは大都会の生活に喜んでいたエドワードでしたが、慣れてくると自分の給料が食べる程度にしかならず、このままでは独立して暮らすことも、ましてや結婚することもできないことに気がつきました。賃上げを要求しましたが、ボスは取り合ってくれず。憧れのサファリドライバーになるために、アフリックの支援で運転免許Eクラスの取得のため、教習所に通いました。

㈪道路建設プロジェクトでの日雇い労働の職を求めて(2004年)

運転免許を取得したエドワードは、資格があれば就職に有利に働くことを期待して、300km離れたドドマという町に行きました。友達が、日本企業K社が建設する道路工事の現場で働いており、仕事があると誘ってくれたのです。しかし、行ってみると仕事はありません。チャンスを狙って工事現場をうろつき、タンザニア人の現場監督に口をきいてくれるようお金をわたしましたが成果はあがらず。2ヶ月後、とうとう日本にいる私に「K社の日本人現場監督に自分を紹介してほしい」と国際電話がかかってきました。残念ながらK社と縁もゆかりもない私が力になれることはなく、エドワードはドドマの友人宅に4ヶ月居候した後、あきらめてダルエスサラームに戻っていきました。

㈫インド人のプライベートドライバー(2005年)

再びダルエスにもどったエドワードは、サファリドライバーの夢に向けて商用車を運転できるCクラスの免許をアフリックの支援で取得しました。そして、免許があるだけでは雇ってもらえないので、3ヶ月の英会話学校にも通いました。しかし、学校に行ったからといってすぐに英語が話せるようになるはずもなく、何年かかるか見通しが立たないため、アフリックからの支援はひとまず終了となりました。

この頃、エドワードはガレージを出て、友人の部屋に居候していました。ある日、運良くガレージの先輩の紹介で、インド人商人のプライベートドライバーとして雇われることに成功したのです。念願のドライバーの仕事に大喜びのエドワードでしたが、この仕事も楽ではありませんでした。昼夜休日を問わず拘束され、厳しいインド人のボスにはいつも怒鳴られ、その割には安い給料でした。3ヶ月ほどでこの仕事はやめました。

エドワードが居候している友人。小さいながらも自分の店をもっている。 彼の電話を借りて、日本に時々国際電話がかかってくる。だだしワンギリ。日本からかけなおす。

㈬牛乳工場の配送車のドライバー(2006年)

牛乳工場でのドライバー募集は、新聞に公告が出ていました。応募したエドワードが指定された日に面接に行くと、4人のグループ面接。交通標識に関する質問にしっかりと答えて、見事エドワードは採用されました。しかし、この仕事も半年たたずに退職。「せっかくの職だったのになぜ?」ときくと、エドワードいわく「給料が安い」とのことでした。

こうしてみてくるとタンザニアでの就職方法は、㈰丁稚奉公、㈪㈫友人の紹介、㈬公募への応募、といった手段になります。日本では圧倒的にメディアを使った公募㈬が主流ですが、タンザニアでは新聞やインターネットなどのメディアにアクセスできるのは一部の都市富裕層に限られます。アクセスするお金や設備をもたないエドワードのような貧しい若者や農村部の人たちにとっては、友人からの口コミ情報が命になります。というか、それ以外に情報はありません。

そのため、彼らは多くの人と広くコミュニケーションを取って情報を集めます。そして、少しでも可能性があれば「ダメもと」で挑戦してチャンスをつかもうとします。それは見方によっては「おしゃべり好きな暇な連中」「仕事の紹介を頼んでくるなんてずうずうしい」と見えたりしますが、それが彼らの就職活動でありサバイバル術なのです。

通常は、親戚の紹介もよくあるパターンですが、孤児のエドワードには、残念ながらそのルートはありません。アフリックや私という日本人に頼ってみたものの、いまだ道は開けず・・・。今後も彼の奮闘は続きます。現在は、自分で友人からお金を借りて、再び英会話学校に通っています。彼の生活が安定してくれたら、どんなに私も安心できることか・・・。がんばれ、エドワード!

ABOUTこの記事をかいた人

日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。