地域を知る(タンザニア)《zaka / 居住地以外・原野・外・トイレ / サンダウェ語》

八塚 春名

「どこへ行くの?」村の人たちがわたしに向けるこのセリフは、朝の挨拶の一部みたいなもので、「おはよう」のあとに必ずくっついてくる。それは、わたしが毎日、林のなかで植物をサンプリングしたり、誰かの畑に出かけたり、誰かの家に行って聞き取りをしたり、そんなことを繰り返していることを、みんなが知っているからだ。だから、さて、今日はどこへ行くのだろうか、と。

ここは、タンザニアの中央部。サンダウェという民族が暮らしている。タンザニアでは日常的に公用語であるスワヒリ語を使って生活をしているわたしは、サンダウェ語がそれほど得意でない。でも、冒頭のやりとりくらいはサンダウェ語で返すようにしている。そして、たびたび林に行くわたしに、彼らが「ザカに行く、と答えればいいんだよ」と教えてくれた。

「ザカ」を題材にエッセイを書こうと思ったものの、わたしはこの言葉を理解するまでに何年もかかった。こうしてエッセイのなかで説明をするのも、一筋縄ではいかない。サンダウェはみな、わたしにザカの意味を説明してくれるときには、スワヒリ語で原野やサバンナを意味する「ポリ(pori)」という単語に訳してくれる。たしかにザカはポリと同じような、サバンナ、林、といったところを指すけれど、どうやらそれだけじゃない。彼らの会話を聞いていると、ザカには文脈に応じていくつもの意味がある。

第一に、「居住地以外」という意味がある。タンザニアでは、初代大統領ニエレレの政権時代に、農村地域の発展を目指すウジャマー村政策が実施され、「村」という行政単位が設定された。さらに、人びとは道路沿いに家を移すことを求められ、多くの人が集住するようになった。サンダウェは、そうしてできたたくさんの家が建ち並ぶエリアを、村を意味するスワヒリ語を当てはめて、キジジ(kijiji)と呼ぶ。そして、それ以外、つまり、家がほとんどなく、林が広がるエリアをザカと呼ぶ。ある日、わたしが友人レジナとロバについて話していたとき、彼女はこういった。「もし、わたしがロバだったら、そして背中に山ほど荷物を載せられたら、わたしはザカに逃げてやるわ!」でも、実はザカにはもうひとつ大事なことがある。「ザカ」と呼ぶからには、必ず樹木が生えていないとダメらしい。だから、たとえ家がなくても、樹木のない荒野はザカとは呼べない。レジナのロバは荒野に逃げるのではなく、林の奥へと逃げるのだ。

続いて、第二の「ザカ」。実は、家がなくて、木が生えているエリアは全部ザカかというと、先のようにキジジに対応して言及されるとき以外は、そうでもなさそうだ。もう少し注意深く彼らの語りを聞いていると、どうやら、山や丘はザカでないらしい。たとえそこには家がひとつもなく、木がうっそうと生えていたとしても「山は山、ザカではない」そうだ。だとすると、「第一」と「第二」とわけなくても、そもそも、「家がなくて、樹木が生えていて、山や丘以外の平坦なところ」といえばいいじゃないか、と思われそうだが、やっぱりそうではない。なぜかといえば、第一の意味のように「キジジ」に対応させるとき、たとえば、だれかがわたしに「どこへ行く」と問い、わたしが「林に(つまり居住地から離れて)調査に行く」と答えるときには、やっぱりザカを使って答えるのだ。このとき、尋ねた彼らも、答えたわたしも、そこが山かどうかということは問題にしていない。その次の会話として、「どこのザカ?」「どこどこよ」といい、そのときの「どこどこ」に山の名前が入っても、「それはザカじゃないよ、山じゃないか」という訂正は入らない。もちろん「山に行く」と 最初からザカを使わずに詳細を答えてもいいのだけれど。ああ、やっぱり、ザカを説明するのは、なんだかとってもまどろっこしい。

第二の意味の「ザカ」にはいくつかの種類がある
 

続いて、第三のザカ、「外」。お母さんが子どもに「外で遊んできなさい」というときにも、「ザカへ行っておいで」という。そして、第四のザカとして、「外」から派生したと思われる「トイレ」という意味がある。「ちょっと失礼、ザカに行ってきます・・・」と。

さて、このなかで一番ややこしい「ザカ」は二番目の意味のザカだ。このザカには、複数の下位分類がある。そこはずっと広がる平地なのか、谷地なのか。そこに広がる土壌は何色で、土は硬くて重いのか、それとも砂なのか。どんな樹種が優占しているのか。そういった複数の情報を組み合わせて、どんなザカなのかを識別し、「○○ザカ」と呼び分ける。こうした細かな識別は、どこに畑をひらくのか、そこで何を栽培しようか、ウシを放牧するときにどこへ草を食べさせに行こうか、今夜のおかずを採集しに行くときにどこでたくさん手に入るのか、キノコはどこへ採りに行こうか、今の時期ならどこに設置した養蜂筒にハチミツができていそうか、といった生活のさまざまな場面で生きる、とても大切な知識なのだ。そして、ザカのややこしさの極みは、生活のさまざまな場面で生かされる知識だからこそ、ひとりひとりの個人的な経験が強く反映され、同じ場所を指しながらも人によってその場のザカに対する認識がちょっとずつ違うことがあるということだ。たとえば、ある場所を畑に使うマグダレーナさんと、そこを日常的に放牧で通過し近くでウシに水を飲ませるムサさんは、 それぞれ、その場所がどの「○○ザカ」であるのか、私に理由をつけて説明をしてくれたが、ふたりの答えは同じではなかった。生活に密接に関わってくるからこそ、個人がどのようにその場所と、そのザカと関わっているのか、そこをどのように使っているのか、毎日どこを通り、どこにはめったに行かないのか、そうした違いが、ザカの認識に現れてくるのだ。こうした個人の知識と多様なザカがつながってこそ、この地域での暮らしが成り立つ。このことがわかるまでに、私は何年もの月日を費やした。

どのザカに行けばウシがおなかいっぱいになれるのか、牧童はそれぞれの知識をもっている
 

言葉にしてザカを説明するのは、やっぱりなかなかむつかしい。でも、村のみんなが日常のさまざまな経験を通してザカを理解しているということを私が理解でき、そして、この村での生活をとおして、なんとなく、私も私なりにザカを認識できるようになったとき、やっと、この地域を多少なりとも知ることができたのかもしれない、とほっとしたことを思い出した。

さて、わたしも聞いてみよう。みなさん、「今日はどこへ行きますか?」