池邉智基
去年の夏頃だろうか。ダカールの町中の壁や電柱などに、写真に示した張り紙がいたるところに貼られていることに気づいた。そこにフランス語で「同性愛に罪を」(Oui pour la criminalisation de l’homosexualité)と書かれているのを見てぎょっとした。この張り紙は、「アンド・サム・ジッコ・イ」(Ànd Sàmm Jikko-yi、以下、ASJ)という団体によって作られたものである。この団体名はウォロフ語で「倫理を共に守ろう」という意味である(注1)。ASJは2019年頃より活動を始めている団体で、イスラーム学者やクルアーン学校教師などのメンバーが名を連ねている(注2)。ASJは活動開始当初は、「倫理」(jikko)すなわち「イスラームの理念」に反する行いを正すという目的で、メディアでの性的表現の規制や同性愛の否定、人工中絶の禁止など、いくつかの活動目的を掲げていたが、現在は反同性愛運動に焦点を絞り、2021年5月にはダカールで同性愛の罰則化を求めるデモを数百人規模で行っていた(注3)。おそらく私が見た張り紙はそのデモが行われたときからずっと貼られているものだろう。ムスリム(イスラーム教徒)が国民の9割以上を占めるセネガルでASJが起こした運動は決して小さなものとは言えないが、一応、政教分離原則に則ったセネガル政府が宗教的な理念をもとに法律化することはないだろう、と私は思っていた。
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ASJは着実に準備を進めていた。12月23日、ASJは同性愛が小児性愛(注4)や獣姦に並ぶ悪しき行為であるとして、反同性愛法案を国会に提出した。すでに1966年に制定されたセネガルの刑法第319条には、「同性の個人と性行為あるいはわいせつ行為をしたものに1年から5年の実刑判決および10万から150万CFAの罰金を科す」と明記されている(注5)。ASJはこの第319条について、「5年から10年の禁固刑と、100万から500万CFAの罰金刑」に厳罰化するよう修正案を提出したのである。団体のFacebookページではイスラーム学者や政治家らの名前と写真が、彼らがその法案に賛成していることを示す文章と共にいくつも投稿されていた。法案提出時、セネガルのテレビでは、レインボーフラッグを燃やしたり、「同性愛に罪を」と書かれた紙を掲げ叫んだりしているデモ隊の様子が映し出されていた(注6)。
アフリカで同性愛がタブー視されている地域は多い。セネガルもその例に漏れず、同性愛というのは存在そのものが悪だと言わんばかりである。セネガルで同性愛に対して否定的な論調があること、何かしらの話題をきっかけにSNSなどで大きく議論になっていることはこれまでに筆者も見てきた。例えば、男性同士で性行為を行っていたところを見つかり逮捕されたこと、セネガルの人気歌手がコンサートでレインボーフラッグを使ったこと、女性の服を着て登場した男性ダンサーに「同性愛者」疑惑があるなど。きっかけはさまざまだが、ラジオや新聞で否定的に取り上げられたり、SNSでさまざまな否定的意見が拡散したりことがいくつもあった。
こうしたセネガルにおける同性愛に対する否定的な反応は、保守的な男性中心の家族観、宗教的価値観、さらに反植民地主義などが複雑に入り混じったものである。私が3年近く滞在してきた中でも、セネガルにおけるジェンダーとセクシュアリティの話題は「男は男らしく、女は女らしく」あるべきだという保守的な規範の存在を身に沁みて感じる機会は多い。そしてその規範はしばしば、「アダムの子ども」(doomu Aadama)である人間の「正しい行い」といったイスラーム的な規範としても説明される。礼拝といったいかにも宗教的行為だけでなく、衣服の着方や食事の際の振る舞いについても、「男」と「女」というジェンダーの二項対立が常にイスラーム的な規範として存在しているのだ。セネガルを訪れる多くの外国人にとって、セネガルは「中東とは違った」、「ゆるい」イスラームだという認識がされていることは少なくない。それはただ、多くの(特に非ムスリムの)外国人がイメージしているムスリムと部分的に違って見えるだけで、実際にセネガル社会にはかなり保守的なイスラーム的規範が垣間見えることが多々ある。そして時に、人びとが「正しい」イスラームを求める運動は、それまで許容、あるいは黙認されていた部分を社会から排除する動きになることもある。
また、同性愛はヨーロッパなど西洋から持ち込まれた思想であり、イスラームの伝統を壊すものとみなすムスリムもいる。世界各国でLGBTに関する社会運動が起きていることに対するバックラッシュは、異性愛者からの偏見や差別だけでなく、宗教的な言説としても再構成されるのである。たしかにイスラームの聖典クルアーンでは、同性愛が「不信仰者」の行いであることを否定的に論じる章句があるが、青柳(2020)が示したサウジアラビアやイランにおけるファトワー(法学者が信徒向けにイスラーム法解釈を回答したもの)の事例では、イスラーム法学者らがクルアーンを典拠としつつ同性愛を否定していることに加え、ヨーロッパなどの人権団体がLGBTの権利保護を主張することを「宗教的逸脱」とみなしているイスラーム法学者の発言がある(注8)。こうした反応をただ単に「イスラーム原理主義」と呼ぶのは説明不足だろう。イスラーム解釈は、単純にクルアーンなどに書いてあることをそのまま額面通りに受け取るわけではなく、その土地で現在起きていることに対して、クルアーンなどを「伝統」の典拠として考えるという手段だ。そのため、一般のムスリムからイスラーム学者によっても解釈は画一的ではないし、それぞれの地域的文脈に従って、「伝統」という語が持つ意味や対象は多様である(注9)。
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実際のところ、セネガルにおいて同性愛に対する否定的な反応が目立つようになったのは、かなり最近のことであるようだ。Bop(2008)やM’Baye(2013)、Bertolt and Massé (2019)などの研究によると、セネガルで同性愛が大きく問題視されるようになったのは2008年からと言われている(注10)。むしろそれ以前には同性愛に対して「寛容」な国であるとさえ論じられた記事がある他、植民地期のセネガル社会に「同性愛者」が存在していたという植民地行政官や旅行者の記述もある。同性愛は、ウォロフ語で「ゴールジゲーン」(góor-jigeen)と呼ばれ、「女」(jigeen)のような「男」(góor)、すなわち生物学的男性が「女性的」であることを意味している。この「ゴールジゲーン」(以下、この語の含意も残す意味で「女男」とあえて書く)という語は、セネガルの伝統的ウォロフ社会における憑依儀礼の担い手である女性的な格好や振る舞いをする男性を意味する場合もあれば、生まれ持った性と性自認が異なる男性、ホモセクシュアルの男性などを意味する場合もあったようである。現代では基本的に後者の意味で用いられている「女男」という語は、2008年以降に政治的かつ宗教的なトピックとなった(注11)。
では、2008年に同性愛嫌悪の言説が見られるようになったのは、何がきっかけだったのか。それは、セネガルで発刊されているIcôneという雑誌の2008年2月号で、男性同士の結婚式と見られるイベントについての記事が取り上げられたことから始まった。雑誌が販売されてすぐに、警察は特に証拠もないままに、イベントの写真に写っていた数名を上述した刑法第319条を理由に逮捕した。その後彼らは釈放されたものの、これを各種メディアが大きく報じた(Bop 2008)。さらに、HIV/エイズ患者のための社会活動をしていたAIDS SENEGALのメンバーが同性愛者とみなされ警察から逮捕されるほどの騒ぎにもなり、それに対してヨーロッパの政府が団体のメンバーを開放することを求めた。結果的にセネガルの裁判所はメンバーの釈放を決定したが、世論はヨーロッパの言いなりになった国家に対する不信感を強めた(Bertolt and Massé 2019: 27)。
これらの事件をセネガルの「倫理的退廃」を象徴する出来事とみなしたイスラーム系団体は、「同性愛者によってセネガルのイスラーム社会が汚された」といったホモフォビックな言説を発信した。この出来事に対する反応の背景には、2000年から始まったアブドゥライ・ワッド政権下において国家経済が低迷していったことに対して、市民の失望の矛先が「正しいイスラーム」を希求する運動を導いたと見る向きもある。国家経済の停滞とイスラーム運動を単純に結びつけることはできないものの、この一連の出来事は、セネガルにおいて同性愛とイスラームの伝統が拮抗関係にあるものとして、かつヨーロッパの各国政府とセネガル政府の従属関係についても、大きな問題として取り上げられる契機となった。その結果として、セネガルにおける同性愛は、保守的なイスラーム的観念や反植民地主義などの思想と相まって語られることとなった。そして度々、「女男」をめぐる「事件」が取り上げられ、一時的な論争(フリーメイソンによる暗躍といった陰謀論さえ含むもの(注12))を巻き起こし、いつの間にか沈静化するという経過を幾度も辿ってきた。
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さて、冒頭に示した法案の行方はどうなったか。2022年1月8日、ASJが提示した反同性愛法案が国会で棄却されたことを各種メディアが大々的に報じた。棄却された理由は、上述の刑法第319条にある同性での性行為等をした場合の罰則をさらに厳罰化する必要はないというものであった(注13)。
法案の棄却を聞いた団体は黙っていなかった。レインボーフラッグが国会前でまたも燃やされ、イスラーム学者たちの怒りのこもった声明が新聞やラジオ、SNSを通じて流されていた。私のWhatsAppには、その日から毎日たくさんのメッセージが届くようになった。私が入っているグループチャットには、同性愛がいかに悪であるかを唱えるイスラーム指導者の言葉、音声ファイル、映像などがいくつも転送されてきた。あまりにもうるさくて、通知をオフにしたほどだった。その内容は、ASJが法案提出をした年末よりも、明らかに激化していた。イスラーム学者が語るウォロフ語の説教で、同性愛がいかに悪であるか、イスラームの原則において神は男と女を作ったのであって「女男」を作ったわけではないことなどが語られたもの、あるいは「女男」は「自然の摂理」に反するという内容の文面や画像、国会の判断が間違っていることに怒りを示すボイスメッセージ、国会に「女男」を広めようとしている人物がいる疑惑や陰謀論などの話題まで、毎日のように転送されてきた。ついには、セネガルで多くの信徒を抱えるイスラーム教団指導者からの反同性愛についての声明文(注14)まで届いたほどであり、すでに一団体がはじめた運動という枠を大きく超えていた。
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この一連の騒動に対して、強い怒りを顕にしたのが、大統領のマッキー・サル(Macky Sall)である。サルは、1月27日に開かれたイスラーム学者との会合で、現行の刑法第319条がすでに存在している以上さらに厳罰化する必要はないと国会での決定を再度説明しつつ、自身が大統領であるうちに同性愛を非犯罪化することはないと断言した(注15)。彼は、法案棄却という国会の決定に対する人びとの反応が、1月23日に行われた地方選挙で彼が率いる与党が各地で野党に敗北してしまったことに少なからぬ由縁があると捉えたようだ。サルは大統領になってから一貫した主張を続けていたし、すでに刑法で決められているのだからこれ以上騒ぐ理由はなかっただろうという考えだった。それがサルの怒りの理由だった。
サルが会合で示した姿勢は、年末から燃え上がっていた火にさらに油を注ぐ結果になってしまった。すでに1月末の世論は、国会すなわちサル政権の今回の判断を、国の存続を揺るがす一大事とでも言わんばかりになっていた。SNSで飛び交う情報は毎日のように、「女男」について論じる政治家やテレビタレントなどのコメントや、人目につかないところで性行為に及んでいた同性愛者の存在を暴くような記事や映像が流れてくるようになった。ダカールの郊外では、同性愛者であったと噂されていた男性の遺体がムスリム墓地に埋葬されることを防ぐため、一部のムスリムによって墓の掘り起こしが行われかけたため、警察が墓地で監視するといった事態まで起きていた(注16)。そして、そうした情報がひとたびSNSで拡散されるやいなや、イスラーム学者らによる同性愛嫌悪のメッセージが再生産され、さらなる拡散が行われるといった状況になっていた。
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2月6日、カメルーンで開かれたアフリカネイションズカップでセネガル代表が優勝した。大会で初の優勝を果たしたことにセネガルの誰もが勝利を喜び、セネガル国旗を手に街に繰り出す人びとで、国中が浮足立っていた。反同性愛運動で生じた緊張感は、セネガル国民の熱狂に吹き飛ばされたかに見えた。しかし、ASJの活動はそれでうやむやになることはなかった。団体のFacebookページでは、法案棄却に反対するため2月20日に開かれるデモへの参加を呼びかけるメッセージが毎日のように投稿されていた。
2月20日、ASJのFacebookにはデモの様子が早速アップされていた。ダカールでデモや政治集会が開かれるオベリスク広場には、写真で見る限りかなりの人数の参加者が集い、法案棄却に対する反対意見を示した。ASJのFacebookページには、複数の写真や動画に加えて、「セネガルの若者は女男を忌み嫌っている。それが今日示された。」(Ndawi Sénégal bëgguñu ngóor-jigéen, te loolu lañu wane tay.)といった言葉や、「女男たち、どこか別のところに行け。ここは君等にとっていいところじゃないぞ。セネガルは女男のいる国じゃない。」(Góor-jigeen yi demleen faneen, fii du baax de. Sénégal du réew am góor-jigéen.)という言葉が相次いでポストされていた。「おもてなし(Teranga)の国」と謳われているセネガルには、「女男」の居場所はないのだろうか。
ASJの運動は、いまのところ、セネガルの法律を変えるほどのものにはなっていない。しかし、これまでの運動に見られるマイノリティを排除しようとするメッセージの残酷さに加えて、イスラーム的規範のもとに発せられる宗教的言説と、セネガルという国単位で語られる政治的言説が結び付けられている状況には憂慮せざるを得ない。今後どのように運動が広がっていくのだろうか。これまでのようにまた沈静化したとしても、ASJのような運動が再度生じるような気しかしないが、政治家やイスラーム団体、メディアや世論の動きに注意を払っていく必要があるだろう。
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脚注
(注1)jikkoとは、通常「性格」や「態度」などと訳せる表現であるが、イスラーム的文脈においては、ムスリムとしての「正しい行い」や、神によって示された「摂理」、「倫理」などと訳される。本稿では、ASJがイスラーム学者などを中心に構成されていること、彼らの同性愛者批判の中に明らかにイスラーム的文脈があることを考慮し、jikkoを「倫理」として訳す。
(注2)詳細は、こちらのASJのFacebookページを参照。
(注3)詳細は時事ドットコムニュース「同性愛を犯罪に セネガルで数百人デモ」(2021年5月24日)を参照
(注4)ちなみに、セネガルでは十代の少女が父親やおじなどの近親者からレイプされるという事件が跡を絶たない。これもSNSなどで発信されるニュースで頻繁に報じられる話題の一つである。
(注5)セネガルの刑法はこちらを参照。なお、1966年にこの法案がいかに成立したかについては本稿の射程を大きく超えるため、ここでは深入りしない。
(注6)ASJの法案では、対象を同性愛者から「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー」に拡大されているものの、団体のメッセージやメディアの報道などでは基本的に「同性愛」(homosexuel)という語が使われている。もちろんLGBTがすなわち同性愛であるわけではなく、セネガルにおけるジェンダーとセクシュアリティに関する議論において十把一絡げに「LGBT=同性愛」とされているためであるが、本稿では混同を避けるため、ASJなどの反対派の主張を示す部分ではLGBTの語を使わずに「同性愛」とした。
(注7)画像引用元は、ニュースサイトTeranga newsの記事”And Samm Jikko-Yi et des parlementaires déposent une proposition de loi pour le durcissement de la législation sur l’homosexualité”(2021年12月23日)より。
(注8)青柳かおる(2020)「イスラームにおける同性愛―伝統的解釈を中心に―」『新潟大学人文学部人文科学研究』第147輯、pp. 1-19。
(注9)青柳(2021)では、同性愛者であるムスリムによるクルアーン解釈について論じられている。詳細は、青柳(2021)「イスラームの同性愛における新たな潮流―ゲイのムスリムたちの解釈と活動―」『比較宗教思想研究』第21輯、pp. 1-24
(注10)ここに挙げた文献は以下の通りである。いずれもオンラインで閲覧可能である。
Bop, Codou (2008) “Senegal: Homophobia and Islamic Political Manipulations” Occasional Paper 1(8). Africa Regional Sexuality Resource Centre.
M’Baye, Babacar (2013) “The Origins of Senegalese Homophobia: Discourses on Homosexuals and Transgender People in Colonial and Postcolonial Senegal” African Studies Review 56(2): 109-128.
Bertolt, Boris and Léa E.J.S. Massé (2019) “Mapping Political Homophobia in Senegal” African Studies Quartely 18(4): 21-39.
(注11)とはいえ、2008年より前にセネガルで同性愛が社会的に認められていたとみなすのは早計だと思われる。社会的にマイノリティである人びとについての言説が中心的な話題になることが少なかったということは容易に想像できるため、そもそも彼らについての否定的な反応や偏見が表出ってメディアなどに取り上げられていなかっただけとも考えられる。ところで、「女男」(góor-jigeen)が生物学的男性で性的指向が男性である人に対する呼称として使われているが、ASJの発言内容などを見ても、例えば「男(のような)女」(jigeen-góor)という呼称でレズビアンを指すということはない。ここで想定されている同性愛はひとくくりに「男性」が対象となっていることは注意すべき点である。このことは、女性の社会的地位がいまだ低いセネガルにおいて、そもそも性的指向以前に結婚相手を決める選択権や発言権が十分に与えられていないことに通ずるものがあると思うのは、考えすぎだろうか。
(注12)実際に、ASJのFacebookページには、フリーメイソンを批判する内容が書かれている。経緯は不明だが、筆者もセネガル人の若者による「セネガルの政治家や著名人もフリーメイソンに入っていて、ヨーロッパの手先になってしまったため、同性愛を認めようという発言をしている」といった言説を聞いたことがある。
(注13)詳細は、Komitid ”Sénégal : le Parlement rejette un texte durcissant la répression de l’homosexualité”(2022年1月6日)を参照。
(注14)詳細は、Komitid “Sénégal : un chef religieux encourage « toutes les démarches légales » contre l’homosexualité”(2022年1月7日)を参照。
(注15)詳細は、Seneplus “MACKY SUR LA CRIMINALISATION DE HOMOSEXUALITE”(2022年1月27日)を参照。ちなみに、過去には同性愛の非犯罪化に賛成の姿勢を示していたこともあるサル大統領は「ゲイ・ロビイ」から献金を得ているという疑惑も持たれていたが(本当にそのようなロビイ活動が行われているとは思えないものの、おそらく上述のフリーメイソンに関する陰謀論もこの中に含まれている)、同性愛を非アフリカ的(あるいは非イスラーム的)とみなす世論に合わせて政治的態度を変えたと考えられている(Bertolt and Massé 2019: 26)。
(注16)詳細は、Seneweb “[Vidéo] Rufisque : Les populations de Dangou empêchent l’inhumation d’un présumé homosexuel » (2022年2月4日)を参照。