祈りの水

池邉智基

身体に触れるものや口にするものなどは、なるべくきれいなものであってほしい。そのような「きれい」であるという状態は、清潔で衛生的であることだけでなく、何かよからぬことがあるかもしれないという不確実な状態ではないということでもあるだろう。私がセネガルで出会ったムスリムたちは、食事をする際に水を使った祈りを行う。今回はその話をしようと思う。

セネガルの首都ダカールで昼に外食をする場合、レストランや屋台に立ち寄ったり、職場や家まで配達されてきたごはんを食べることもできる。レストランや屋台にしろ、配達される食事にしろ、セネガルでは人数分の食事を用意するために、たらいのような大皿を使うことがある。たらいを使って食べる場合は、地面に置いた状態で、複数人で囲んで食べる。たらいには砂やゴミが入ったりしないよう蓋がされており、上には人数分のスプーンが並んでいる。自分のスプーンをとって、水で少し洗って待つ。スプーンが足りなければ手で食べることになるので、手を洗って待つ。蓋をとって、今日のご飯を確認する。さて、こういうときには、すぐに各々で食べ始めてはいけない。年長者が「ビスミッラー(神の御名において)」と言って食事に手を付けるまで、周囲のものは食べてはいけないのだ。ここまではまだセネガルで一般に行われている食事の規則である。これに加えて、私の調査助手たちのバイファルが必ず食前にすることがある。それは、スプーンに水をいれ、あるいは手に水を含んで、祈りの句を唱えながら、数滴ご飯にかけるのだ。

私の調査助手たちは、バイファルという宗教運動に参加している。バイファルは、セネガルのスーフィー教団のひとつであるムリッド教団の内部に構成されており、一般のムスリムたちとは異なる宗教生活を送っている。チャヤという牧畜民の服やカラフルなパッチワークの衣装を着て、首には数珠をいくつもつけており、頭髪はドレッドヘアーにしている。バイファルはムスリムの義務である礼拝や断食をせず、その代わりに各々の共同体の運営などのために「働く」という宗教生活を送っている。私の調査助手たちは、毎月のように行われる祭の開催資金などを工面するため、路上で托鉢をするというのが日常的な実践であった。彼らの毎日の昼食は、近くで携帯電話を売っている友人などが托鉢で生活する彼らを援助するためにレストランや屋台に毎日頼んでおり、そこから配達されている。ご飯が配達されてきたら、路上に散らばっているバイファルたちは「昼ごはんが届いたぞ」と呼びかけあって、たまり場に集い、たらいを囲む。路上で毎日托鉢をするバイファルたちに聞き取り調査している私も、自然とたらいを囲んで食事することが日課になっていた。そして水をごはんに数滴かける行為を毎日目にしていた。しかしこれは、バイファルたちとの食事でしか見ることはなかった。

写真1:たまり場で托鉢で集めた金を数えるバイファルたち。食事もたいていここで行われる。

はじめて見たときはわけがわからなかった。できたて熱々のご飯に数滴でも水をかけることは、食べてみると特に気にならないのだが、せっかくのご飯の味に影響してしまいそうな気がする。しかし、水をかけおわるまで「ビスミッラー」と言われないため、私も待つしかない。なお、左手は悪魔が使う不浄の手であるので、食事で用いるのは右手だけであり、水をかけるときも右手で行う。水をかける理由を彼らに尋ねると、食事に「毒」のような「悪いもの」が入っている場合にそのことが明らかになる、あるいは「悪いもの」が除去されるなどと説明された。にこやかに客に食事を盛り付ける店主たちが「毒」や「悪いもの」を加えるとはとても思えず、実際に何かしらの「悪いもの」が現れたことも私の経験ではないのだが、それでもバイファルたちによってご飯に水をかける行為は、どんな場所でもどんな食事でも行われていた。レストランでも屋台でも、バイファルは「ちょっと水をもらっていいか」と店主にたのみ、小さな声で唱えながら、ちょっちょっちょっ、とスプーンで水をかける。店主は特に気にしていない様子で、疑いの念を向けられているとは思ってはいないようだ。路上で食べるときは、食べる前に周囲で水をもらってくるという過程が必ず含まれる。コーヒースタンドや靴磨き、古着売りなどがひしめき、必ず誰かが水を確保している。「ちょっと待て、シファーイの水をとってくる」と言う声を聞きながら、目の前のご飯を見つめながら水を待つ時間は、彼らと過ごす中で必ず生じるものだった。

祈りの句を何度も聞かせてもらって、「ワーシファーイミンクッリダー」と言っているのを確認した。この文言はムリッド教団内部で共有されているアラビア語の韻文からの引用であることがわかった。この行為はその文言の語頭から「シファーイ」と呼ばれているが、この文言の正確な意味を理解し説明できるアラビア語能力を持ったものは、(私を含めて)一人もいなかった。とにかく、この行為のあとに、ビスミッラーと言うまで食べないのがある種のマナーである。

写真2:農村で共同労働をしたときの昼食ドモダ。このときもきちんとシファーイをした

この行為は食事だけに行われるものとは限らないようだった。以前アパートに入居した際、調査助手が親切にも手伝ってくれたときのことである。箒でほこりを集め、濡れた布巾で床にたまった砂埃をきれいに拭きとったあと、早速マットレスやゴザを敷こうとする私を調査助手は呼び止めた。彼はバケツを持ったまま手で水をすくい、部屋にちょっちょっとと万遍なくまいていた。「それもシファーイなの?」と聞くと、「よくわかってるじゃないか」と笑いながら返された。「悪いもの」がなくなるように、例の文言を唱えながら水をまいていたのだ。水が乾くまで待ってから、二人でゴザを敷いた。

さて、この行為が何を意味しているのか、どういう起源があるのかは結局のところ詳細はわかっていない。「悪いもの」が人為的に加えられるといったことが日常で議論になることはない上、呪術の存在が問われることもなかった。イスラームにおける民間信仰のようなもののひとつかもしれないし、セネガルでは伝統的に行われてきたことが現代のバイファルにのみ行われているのかもしれない。さまざまな憶測を喚起しながらも、このシファーイという行為については、食べる前や新たな地に身を置く前の祈りのような儀礼的行為であるという単純な理解でしか、私は捉えきれていない。とはいえ、この行為は、身体にふれるものを「きれい」な状態にするものではあるだろう。「悪いもの」がもたらされているかもしれないという不確実な状態を拭い去るための祈りとして、彼らの生活の中で実践されているのだと思う。