与え合うモノ、与え合う友情(セネガル)《serica(セリチェ)/贈り物/ウォロフ語》

池邉 智基

「Ana serica bi?(私に贈り物は?)」
「Indiuma dara.(何も持ってきてないよ)」
「Lu tax?(なんでだよ)」

セネガルの農村で調査を始めたとき、この無遠慮な物言いにムッとすることばかりでした。初対面やそこまで親しくなれていない相手にも、「今日はなにをくれるんだ」と会うたびに言われます。調査もまだうまくいっていない状況で、イライラはつのるばかりでした。

農村では都市部よりモノが不足していることが多いため、出稼ぎで都市に出た者が、市場で買い集めたものを、里帰りの際に村の家族へと届けます。村へ向かう車では、お土産の果物だけでなく、電化製品や布をたくさん持っている人を目にします。また、欧米のボランティア団体が「アフリカにはモノが不足している」という善意から、服や日用品などを配る例もあるようです。中古パソコンを村にドンと送るという例も耳にしました。

ガンビアの首都バンジュールに向かう船。セネガルからの出稼ぎでたくさんのセリチェを運ぶ人々
 

そうなると困るのは身一つで来た、私のような学生です。スーツケースには調査道具と服など必要最低限しか入っていません。なにかを持ってきたわけでもないし、ボランティア活動をしにきたわけでもありません。しかし、セネガル人にとって私は、きっとカネをもっている「中国人」で、セネガルにボランティアか商売で来ている、だからカネもモノもたくさんもっている、そう思われていつも問い詰められます。でも、私には渡せるようなセリチェは何もありません。せめて果物を買うくらいです。

「学生なんだ。カネはないんだよ、セリチェもない」
「そんなはずはない。何をもっているんだ。ほらポケットの中を見せろ」
「本当に何も入ってないぞ、ほら」
「・・・なら、きっとお前の部屋にたくさん置いてあるんだ。そうだろう?ところでそのバッグいいな。わたしにくれ」
さすがに毎回このやりとりをすると、うんざりしてしまいます。

このセリチェのやりとりは私にひとつの葛藤を芽生えさせました。研究をしに農村に滞在していますが、その活動は彼らの求めるセリチェのように生活に役立つものではありません。むしろ私が「もらっている」のです。ウォロフ語を教えてもらい、ご飯を分けてもらい、ときには寝床を与えてもらっています。図々しくお世話になっていながら、何もセリチェを持ってこない。少しずつ、イライラよりも葛藤のモヤモヤに気持ちが変わってきました。果たして無遠慮なのはどっちなのか。

そのモヤモヤは、あるときふと解消されました。「イケベ、これを持って帰りなさい」とお茶と砂糖を渡されました。セリチェです。どうしてくれるんだと尋ねると、「おれとおまえは友達だ。あげるのが当たり前じゃないか」と笑顔で言われました。そのときやっと気づきました。モノを与え合う、なにかをしてあげる。それが彼らの友人関係であるのだと。

モノやカネでつながる関係は、どうしてもネガティブなものと感じていました。私はセネガル人に常に”たかられている”と感じていましたが、”与え合い”の関係の中で暮らすものにとっては、決して図々しい”たかり”ではないのです。家を訪れた客人と昼ごはんを分け合う。マンゴーを持ってきたお礼に、ただでバイクタクシーに乗せてくれる。中古パソコンのような大層なものでなくても、何かを施し合い与え合うことが彼らの人間関係を形成しているのでしょう。

「今日は何を持ってきたんだ?」
「何も持ってきてないよ」
「おまえは悪い奴だな!まあ昼ごはん食べて行きなさい」
「ありがとう、じゃあ今度はセリチェを持ってこないとな」
調査に慣れてきた今、こう言ってお互いに笑い合います。マンゴーの季節も終わったし、今度はスイカを買って行こうか。こうしてセリチェのやりとりは続いていくのです。