旅の時間 (ケニア)

中川宏治

 

先日、11月上旬のある日、ケニアを初めて訪問した母との旅行を終え、約2週間ぶりにメルー国立公園に戻ってきた。旅行は、飛行機と運転手付きレンタカーで効率的に移動し、順調に終えることができた。公園への帰り道、マウアの町から公園へ一気に下り降りる坂道から見える周辺の景色は一変しており、一面がみずみずしい緑に覆われていた。待望の雨が降り、無数の植物が芽生えたのだ。メルー国立公園周辺では、3月から4月にかけて少雨期にもほとんど雨が降らず、その後の干ばつの結果、農作物の不作のみならず、野生生物や家畜への被害も深刻であった。これまでの乾期が長すぎたためか、雨が運んできた緑が一段と輝いて見え、草を食む動物たちの表情までもが生き生きとしているように思えた。

公園内の一角。植物の緑が美しい

青年海外協力隊としてメルー国立公園(ケニア)で活動を始めてから、あちこちを動き回っているような気がする。隊員対象の総会、幹事会、分科会などに出席するためナイロビに上京することも多いし、旅行や出張で地方都市に行くこともある。特に、せっかくケニアに来ているのだからということで、隊員の任地を巡ったり、任地とは異なる民族構成や気候を有する地域に出かけていくことも多い。また、公園に隣接する地域に巡回指導に行ったり、公園内では、私が所属する教育部局のオフィスから15キロほど離れた本部に会議などで移動したり、さらに近距離では、毎日10時のティータイム(チャイタイムと呼ばれる)の時間になると、同僚と一緒に10分ほどかけて別のオフィスまで歩いて行き、そこでゆっくりと30分ほど歓談して時間を過ごす。このような時、自分自信の時間感覚が周りに人たちと違うことに気がつく。

チャイタイムは職員にとって重要な休憩時間

ケニアで生活していると、日本にいた時よりも、時間がゆっくり流れているような気がする。実際に、旅行やちょっとした移動の際、目的地に到着するまでに予想以上に時間がかかってしまうことが多い。しかも、どこでどのようにどれだけの時間を費やすことになるか正確に予測できないので、日本のように分刻みの予定を組むことは難しい。ケニアに来る直前まで、普通の日本人がするように、時間を厳守し、一方で時間に束縛されながら、会社の業務に取り組んでいたから、赴任してからしばらくの間は、その時間感覚が通用しないことにストレスを感じることも多かった。当然、時間感覚は国により、民族により、異なることが考えられ、それらに優劣を付けるべきものではない、と頭では理解していたのだが。

公園内には、オフィス、自動車整備場、売店、職員住宅などが点在し、公用車の数も少ないため、職員は徒歩でそれらの間を移動することが多い。彼らの多くは、他の職員とすれ違う際、握手をして挨拶を交わしてから、しばらくの間雑談に入ってしまう。確かに、軽薄な挨拶言葉を交わすだけではなく、簡単な日常会話を楽しむ余裕を持つことは健全な職場づくりのためにも大切なことだと思う。ただ、すごろくで何回サイコロを振っても「休む」ばかりが連続して出た時のように、少しの距離しか離れていない目的地になかなか到着できなくてもどかしさを感じることもある。ちなみに、ケニアでは、握手が挨拶の基本であり、目上の人に対しては、自分の左手を、右腕に軽く添えて丁寧に行い、その他は右手だけで行うか、手をグーの形に握りしめて、拳同士を押しつける簡易なあいさつを行うこともある。

 

また、徒歩で移動する場合の距離の感覚も私とは違うと思った。出張の際などに、目的地に向けて、地元の方と一緒に歩くこともあるが、住民が「そこはそんなに離れていないよ」「すぐだから歩いていこう」などと言っても、それを素直に信じると大変な思いをすることがある。実際に、言われたとおりに歩きだしてみると、カラッカラに乾燥した炎天下の中を1時間以上も歩いてヘトヘトになることが結構あった。事前に確認しようにも、正確な地図があるわけもなく、彼らに具体的な距離や所要時間を聞いても正確な答えが返ってくることもまずなく、初めて訪問する場所であればまず打つ手がない。基本的に、移動に要するコストを払うくらいなら、目的地までの距離が多少長くても、数時間の時間と労力を費やすことを厭わないし、そのバランスが私と全く異なるのである。

 

時間を「必要以上」に費やすのは、歩行の場合だけではなく、車を利用する際も同様である。

 

公園から最寄の町までは公共交通機関が利用できないため、公園のゲート前のアカシアの木陰で、公園が所有する公用車が通りかかるのを待って、それに便乗することが多い。何人もの職員とその家族が丸太を倒しただけの簡易なベンチに腰掛けて、町に向かう公用車が到着するのを待っている。ここでの奥様方や子供たちとのコミュニケーションは楽しいが、さすがに1時間も待っていると手持無沙汰で、何かしなければといった強迫観念のようなものがわき出てきて、持っている文庫本を取り出したくなる衝動に駆られる。しかし、そこで、周囲の人たちと同様に、おしゃべりを楽しみ、ハタオリドリが次々と枝を加えて、アカシアの木に垂れ下がる巣に持ち帰る姿を眺めていると、現地の人々と一緒に、彼らの感覚で同じ時間を過ごしているという、何とも言えない満足感で満たされることがある。

ようやく公園を脱出し、町に到着してからは、庶民の足、マタツで移動することになる。その際も非常にゆっくりと時間が過ぎていくことになる。

マタツは16人乗りワゴン車の形状をしており、運転席から最後部座席まで最高5列のものまであり、座席数が少ないものは3列のものがある。座席数は、運転席のある1列目から最終列まで3席ずつの座席が並んでいるが、3列目以降は左よりに通路があるため、右側の2座席は間隔が狭くなっている。 ケニアに来た当初、マタツの中で意外なことに驚いた。それは、座席の横幅より狭いこの通路が、席としても利用されることである。といっても、補助座席があるわけではない。どのように座るのかと言うと、不適切な表現かもしれないが、通路をはさんで両側の座席の肘掛けに、洋式便所のように腰掛ける状態をイメージしていただくとよいかもしれない。また、このことが理由で、乗客が乗り入れする際に、通路を席に利用している乗客も移動する必要があり、案の定、予想外の時間がかかってしまうことも多い。 私は、1列目は事故の場合のリスクを減らすため避けることにしており、2列目は同様の理由に加え、側面に取り付けられた直径10cmほどの小型のスピーカーから耳が痛くなるような大音量の割れた音が聞こえるため避けるようにしている。このような基準で、自分の気に入った席を選び、着席してから出発まで結構時間がかかることが多く、場合によっては2時間近く待つこともある。その理由は、座席数をはるかに上回る数の乗客を詰め込むためで、時には、2人掛けの席に3、4人を強引に座らせる。混雑した車内では、乗客の体が密着し、他人の肘が顔に当たるなど、痛い思いをすることもある。私にとってはあまり快適な環境とは言えないが、冷静に周囲を見回すと、住民たちは涼しい顔をして平然と座っている。そんな時、ある地に長く住み、その社会に適応した結果として表れている現実の重みを感じる。

マタツの車内の様子。2列目には子どもを含めて6人が座っている

 出発してからも、なかなか順調には進まない。たいていのマタツは、出発を長時間忍耐強く待った乗客を挑発するかのように、まずガソリンスタンドに行き給油する。その後、車内にスペースができれば、次々に新たな客を拾っていく。バスと異なり、基本的に停留所はなく、各自が思い思いの場所で乗り降りし、その度に車は停車する。その間隔が短く、連続すると、当然車は効率的に移動しない。また、タイミングが悪く、途中で多くの客が降りて、空席が目立つ場合は、途中の比較的大きな町で比較的長時間停車して客集めを行う。運転手も車掌も、いかに効率的に収益を得るかといったことばかりを考え、どのようにして乗客の満足度を高めるか、またどのように他社との差別化を図るかといったことはあまり重要視していない。

マタツは、決められた区間で客を乗り降りさせながら走るタイプと、原則として途中で客の乗降がないとされるノンストップの直行便のマタツの2種類がある。当初、直行便のマタツは、遅延なく順調に移動するものと期待していたが、その予想はすぐに裏切られた。 直行便の表示があり、乗車前にそのことを車掌に確認した場合でも、実際に走り出すと次々に客を拾うマタツや、経由地で乗客を別のマタツに乗り換えさせ、そこで再び客が集まるのを待たないといけない場合がある。このような時、私はいつも、「なぜ、最初にすべて説明してくれないんですか??」と叫びたくなるほど、だまされて損をした気分になり、落ち込んでしまっていたが、最近はこれを含めていくつかのパターンを想定できるようになり、心の準備ができるようになってきた。

ただ、このように移動中のロスが多い半面、走行速度は必ずしも遅くはない。エンジンの劣化などが理由で、上り坂ではスピードが出ない場合が多いが、下りや平坦な道では、運転手はかなりのスピードを出す。しかも、少々危険な運転で、日本の教習所でやってはいけないと教えられることを連発する。前の車を追い抜くために、バンプの直前で対向車線に出て急停車、急発進してそのまま追い抜いていったり、カーブミラーのないケニアの山道を走行している際、見通しの悪いカーブで対向車線に飛び出て猛スピードで追い抜いたりする。この高速走行の理由は、これまでのロスを償って、乗客に満足してもらうためとは考えにくく、むしろ、運転手からは、文句があるなら降りていいよ、とでも言わんばかりの雰囲気を感じる。

 

しかし、いくらスピードを出して走ったところで、先に挙げた理由や、運賃のことで客と車掌が長時間口論するための停車、途中で屋根に荷物を載せるために、荷物を紐で固定する作業などの些細な出来事や作業に費やす時間、中継地点での非効率な乗継があるため、最終的な所要時間の短縮には結びつかない。最後の効率的な乗り継ぎは全く運次第といってもよく、長距離移動の際に短時間の待ち時間で乗り継ぎが成功するような稀な出来事が起こると、それだけでその日の満足度がグッと高まる。ちなみに、ナイロビからメルー国立公園までは直線距離で360km、3回の乗り換えがあり、所要時間は乗り継ぎのタイミングにより、6時間から8時間もの時間差がある。私は、上京するたびに、疲労感と不思議な達成感を感じる。

長距離バスについては、最近になって、冷房付きの車両や添乗員が同行するサービスなどが出てきて、各社の競争が激しくなってきたが、マタツを取り巻く状況は、極端な売り手市場で、他社間の競争原理も働かないため早期の改善は難しい。ケニア人は時間に無頓着でゆとりがあり、日本人は時間に厳しくせわしない、と安易に納得しても、日本ではこのようではなかったといくら不満を漏らしても、精神的な負担が解消されるわけはなく、逆に現地の人たちから理解し難い「おかしな人」として誤解されるのがおちであろう。

 

ところで、適応とは不思議なものである。変化のない毎日であっても、何回も経験し、そのことについて考え、時には悩み、苦しむ中で、無意識のうちに受け入れられるようになっていく。平たく言えば、社会や人といった外部環境が自分自身の内面に変化をもたらす。私は、赴任してから1年数か月が経過する間に、この「特異」な時間感覚を否定することを諦め、逆に受け入れ、ケニアの人々と調和してきたような気がする。ただ、このような内面の変化は、人々や動物たちを喜ばせた雨や緑のような具体性を持っておらず、あいまいで確信がない。

 

日本以外の国で、2年間という長期に渡り、生活を送る機会を得られて良かった。その理由の一つは、人間関係に限らず、生活の中でいくつもの摩擦を経験するのに十分な時間を与えられたことである。旅の途中や日常生活で体感し若干変化したであろう時間の感覚もそのうちの一つであり、これは一過性のものではなく、日々の生活の過ごし方や人生の豊かさまで影響を及ぼすかもしれない。また、「逆カルチャーショック」という奇妙な名前で呼ばれるように、帰国後の社会で違和感を覚える原因になるのかもしれない。いずれにせよ、チャイタイム以外の勤務時間はピリッと仕事に励みたいものだ。

ABOUTこの記事をかいた人

日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。