故郷へとつながる旅路 (エチオピア)

山野香織

 

「目の前で友人が殺された。僕は必死で逃げたよ」。
エチオピアのオロモという民族である男性が、そんな言葉をふと口に出した。ここはエチオピアではない、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.である。その繁華街にある小さなカフェで、彼は過去の出来事を思いめぐらせていた。

1990年代初め、エチオピアの首都にあるアジスアベバ大学の学生だった彼は、反政府勢力であるオロモ解放戦線(OLF)を支持する学生団体のメンバーだった。当時は、1991年にメンギスツ独裁政権が崩壊した直後で、次期政権に移り変わる不安定な情勢の真っ只中であった。オロモ解放戦線のメンバーは次期政権の「邪魔者」の対象となったために次々と殺され、彼が所属していた学生団体もその標的となった。そんな情勢のなか、1994年、彼は18歳という若さで政治的亡命者となり、家族を残して他国に渡ることを余儀なくされた。

彼が亡命先として選んだのは、そのときたまたま受け入れ枠のあったオランダだった。しかし、オランダではなかなか永住権を取得することができず、不法滞在者の身分で12年間もの長い期間を過ごしたという。「ドラッグに売春・・・オランダにはいろんな誘惑があったよ。でも僕は誘惑に負けてはいられなかった。勉強をしなければならなかったし、永住権もないまま何か問題を起こせば、それこそ厄介な事態になりかねないからね」と、彼は言った。そんな不安と隣り合わせの生活を送るなか、努力の甲斐あってアムステルダムの大学で学位を取ることができた。そして大学卒業後、2006年にロンドンへ渡り、そこでも大学院で物理学の修士号を取得した。

私が彼と出会ったのは、ワシントンD.C.にあるオロモのコミュニティセンターだった。2009年7月、私が渡米したのとほぼ同時期に、彼もまたロンドンから渡米してきた。ワシントンD.C.をはじめ、アメリカにはオロモの人たちが多く住んでいる都市がある。そのほとんどが、彼と同じ、政治的亡命者として渡米した人たちだ。彼はそんなオロモの同胞たちを求めてワシントンD.C.にやって来た。仲間に囲まれているのは居心地もいいし、将来的にはアメリカでの永住を考えているのだという。たしかに、そのコミュニティセンターにいくと、彼はいつも同胞たちとオロモ語で会話をし、とてもリラックスしている様子だった。現在、彼はアメリカでの永住権を申請している最中である。しかし、永住権を取得するまで早くて2年、遅くて5年はかかるようだ。「結構かかるんだなぁ」と私がいうと、「僕はオランダで『12年間』を経験している。それに比べたら5年なんてあっという間だよ」と、笑って答えた。

ワシントンD.C.にあるエチオピアン・カフェ

そんなある時、彼をつれて、私がよく行く小さなエチオピアン・カフェに行った。ここの店主がオロモ人ということを知り、彼は前から来てみたがっていた。欧米の一般的なエチオピアン・レストランでは、たいていインジェラ(エチオピアの主食とされるクレープ状のパン)が出てくるのだが、この店では、珍しくコチョを出してくれる。コチョとは、エチオピア南部に多いエンセーテという植物のデンプンから作られ、オロモの地域でもよく食べられている硬いパンである。私が店主に、コチョがほしいとお願いすると、すぐに出来立てアツアツのコチョを持ってきてくれた。すると、彼は目を丸くして、子どものように喜んでくれた。「インジェラは時々食べるけど、これを食べるのは何年ぶりだろうか・・・すごく懐かしいよ」と、一口一口、その故郷の味を噛みしめていた。

彼はエチオピアを離れてから15,6年の間、国家のブラックリストに記載されているために、一度も故郷に戻ることはできなかった。おそらくこれからも、戻ることはないという。彼にとって、これまでの政治的亡命という「余儀なくされた旅」は、つねに悲しみと不安がつきまとう苦難の旅であっただろう。しかし一方で、希望を求めながら、同じ境遇にある同胞を見つける旅でもあり、ここではないどこかで生きるための旅でもあった。そしてその旅はいつも、遠い故郷へとつながっている。

メリーランド州にある湖。ここでオロモの新年の儀礼が行われる

 

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。