西ケニア州の村にて——
教会の中に置かれた長椅子に座って待っていると、やがて牧師が入って来た。談笑していた人びとも、それぞれ椅子に座った。私の隣には調査助手のジョンソンと、私が滞在している家の少年ビクターが座った。
教会は小屋の中に長椅子がいくつか並んでいるだけの簡単な作りで、正面には壇がある。キリストの像などの装飾物はない。
「ハムジャンボ」
「ハトゥジャンボ」
牧師のスワヒリ語の挨拶に対し、人びとが答えた。
「やあみんな。さっそく今日の説教を始めよう。ヨナ書の第1章第9節を開いてくれ。……」
こんな軽妙な調子で牧師による聖書の解説が始まった。使い込んだボロボロの聖書を取り出す人もいる。
この村に住むマラゴリ人はキリスト教を信仰する者が多く、そうした人は日曜日には教会へ行く。さまざまな派の教会がいくつもあり、それぞれが所属する教会へと向かう。私も滞在している家の人たちについて、日曜日には教会に行くことにしていた。教会は家から歩いて10分ほどの場所にあった。
その教会は「独立教会」と総称される、アフリカ人によって創設された教会の中の「ペンテコステ派」と呼ばれるもので、日本で見聞きするキリスト教とはだいぶ雰囲気が異なる。
牧師の語りはしだいに熱を帯び、声は大きくなり、身振りも激しくなった。神を信じることで、悪霊や呪いに打ち勝つことができる、という意味のことを語っているのだった。
やがて牧師は窓から身を乗り出し、「ニョカ!」と叫んだ。ニョカ(Nyoka)とはスワヒリ語でヘビを意味する言葉である。「ヘビよ。出て行け!」と叫んだのであった。悪霊をヘビに見立て、それに対して「出て行け」と言ったのである。
人びとも口々に「ヘビ」「出て行け」と叫び、足でヘビを踏みつぶす真似をした。室内に足の音が響く。私も人びとにならって「ヘビ!」と叫び、踏みつける動作をする。
※ ※ ※
キリスト教では全般に、ヘビはアダムとイブに知恵の実を食べるようそそのかした楽園追放の元凶、また「ヨハネ黙示録」で大天使ミカエルと戦う悪魔の象徴とされる。村の人びとが現実のヘビを特に敵視している様子はなく、あくまで「象徴としてのヘビ」ということなのだろう。
一方で私がヘビにいだくイメージは、年賀状に描かれる、あの丸い目のかわいらしいヘビである。上の方には「迎春」などと書いてある。
日本ではヘビは神聖な動物として崇められ、ときには恐れられてきた。水神はヘビの姿をしているという。大きなヘビが淵に住み、怪異をおこす「蛇ヶ淵」の伝説は日本各地に存在する。若者がヘビを助け、そのヘビが美しい女に変じて恩返しにやってくる「蛇女房」の昔話も各地に残っている。
そうしたイメージになじんでいると、ヘビを邪悪の象徴として見ることにはとても奇妙な感覚を覚える。
それにしてもこんなとき私がいつも思うのは、「私の宗教はいったいなんだろうか」ということだ。
ケニアで「おまえの宗教はなんだ?」と聞かれることがたびたびある。そういうとき私は「仏教だ」と答えることにしている。しかし実際のところ、私は自分が仏教徒だとは感じていない。他の多くの日本人と同様に私は宗教行事への参加者であって、たとえば浄土宗が説くように「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽浄土に行くことができると真面目に考えているわけではなかった。
私には祈るべき神がない。
ヨーロッパのサッカーの試合を見ていると、交代選手が十字を切ってピッチに入っていく様子をよく見る。モロッコの陸上競技1500m走の世界記録保持者ヒシャム・エルゲルージはオリンピックで1位でゴールしたあと、トラックにひざまずいてアッラーに感謝していた。
そうした場面を見るといつも、何かの神を信じている人と対決したら私は負けるのではないかと思う。「神の加護」なしでこの不確かな世界を生き抜いていけるものかどうかも怪しい。
そう思うのもどうやら私だけではなさそうだ。京都でおこなわれる祇園祭では厄除けの「ちまき」というものが売り出され、それは飛ぶように売れるのだった。祭の喧騒の中、すれちがった青年たちは「俺、厄除けがなかったら生きていかれへん気がするわ」「そうやな」などと話していた。「ゴルゴ13」のように自分の能力に絶対の信頼を置く人物は神を必要としないのかもしれないが、そんな人は果たして現実に存在するだろうか。
強靭な精神力を備えていそうなイチローは、神を持っているだろうか? イチローのバッターボックスに立った時の準備動作は、まるで何かの宗教儀式のように見える。イチローのような人には神はいらないのか、あるいはよりいっそう神を必要とするのか。そんなことはイチローに聞いてみなくてはわからないのだ……
人びとが「ヘビ!」と連呼する声を聞きながらそんなことをとりとめもなく考えていると、私は村の人びとが少しうらやましくなってくるのだった。