映画の楽しみ(ケニア)

庄司 航

アフリカの国に行くと、道行く人からやたらと「ジャッキー・チェン!」と言われることは日本人であれば誰もが経験することだ。ケニアでも事情は同じである。

どういった経緯で中国アクション映画(香港映画も含めて)がこのようにアフリカ各地で人気をもつにいたったのか私はよく知らないのだが、いずれにせよ、中国のアクション映画は若者たちに大変な人気を誇っている。

私も中国のアクション映画は結構好きな方だ。私の好みを言えば、ジャッキー・チェンよりもブルース・リーよりもジェット・リーが出ている映画を好んでいる。ジェット・リーも、世界的に前の二人に劣らぬ人気と知名度を持っているアクション・スターだ。

ジャッキー・チェンやブルース・リーの映画は生身のアクションを身上としているが、ジェット・リーの出演する映画は派手なワイヤーアクションで人が飛び回るようなものが多く、私はそれを気に入っている。そういった映画は「武侠映画」と映画の世界では呼ばれ、 生身の格闘アクションを中心とする「カンフー映画」と区別されているようだ(参考:岡 崎由美・浦川留著『武侠映画の快楽』)。無論そうした区別をケニアの人びとが意識しているわけではないだろうが、もしかしたらケニア人たちの間でも「人が空を飛ぶ」ことに対する許容の度合いは人によって異なるかもしれない。

「ジェット・リーは好きか?」とナイロビ在住の調査助手の青年に聞いてみる。

「もちろんだ」
「俺は『英雄(HERO)』が好きなんだが、見たか?」
「もちろん見た。『LOVERS』だって見ている」
「あれには日本人の俳優が出ているんだ。金城武といってな・・・」
「中国人と日本人の区別は俺達には難しい」
「そりゃ日本人にだって難しいさ」

彼は私のあげる映画はみな知っているようであった。

「『龍門飛甲(英題:Flying Swords of Dragon Gate)』はまだ見ていないだろう」
「それは知らないな」

知らないのも当然だ。私はケニアに来る飛行機の中でジェット・リー主演のこの映画を たのだから。日本でもまだ公開されていなかったのだ。

西ケニアの農村に滞在していたある日、滞在していた家の少年たちとサッカー中継を見るために歩いて 40 分ほどのマーケットに出た。マーケットにはジュース一本程度のお金を払ってサッカー中継を見ることのできる小屋がある。着いてみると試合開始にはまだ早く、サッカーではなく映画を上映していた。現代を舞台にした中国のアクション映画のようだった。

ただし、なんということか、音声は出ておらず、かわりにスワヒリ語で吹き替えと解説がついている。 ひとりで全ての人物の吹き替えとさらに解説もやるものだから、ちょうど日本の無声映画時代の「活動弁士」のようだ。 映画の内容は、強いヒロインが悪の組織のボスとおぼしき人物を奇抜な技で倒して THE END という、いかにもB級映画的内容で、 それに陽気でとぼけた「弁士」の吹き替えがつくものだからなんともいえない摩訶不思議な作品が出来上がっており、私は驚いた。 周囲を見渡すと、まわりの人びとはそれなりに楽しんでいるようだった。 少年たちに聞いてみると、こうした「吹き替え」付きの鑑賞スタイルも普通であるようだ。

サッカーや映画を上映する小屋。前方の布にプロジェクターで映像が映し出される。
 

こうしてケニアの人びとと中国のアクション映画について談義するのは私にとって愉快なことだ。しかし私はこうも考える。

いつか、ハリウッド映画や中国のアクション映画やあるいは日本のアニメ—ション作品のように、アフリカ人による、そして過去の植民地支配や奴隷貿易の歴史を題材としなくと も、アフリカ的精神が感じられるような独自の映画をアフリカ人たちが夢中になって観るような、そんな時代が来ないだろうか。私もそんな映画を見てみたい。

家に帰り、夜になって、私は家の少年たちとまた中国映画について話していた。すると隣の家からやってきた少年が「チャイニーズ・テンプル」と言って両手の指を組み合わせて 私に見せた。指の形がちょうど中国や日本の寺院の屋根の連なりのようになっている。そういえば私も自分が小学校低学年の頃、「カエル」などといって同じように両手の指を組み合わせて形を作って遊んでいたのを思い出し、懐かしくなった。

得意のポーズをとる少年たち。