日本とケニアの未来世代の交流(ケニア)

目黒 紀夫

今年(2017年)の夏、はじめて自分の学生を自分のフィールドであるケニアに連れていった。まず首都のナイロビに数日滞在して、街中を散策したり現地の大学の講義を受けさせてもらったりした。それから一週間ほど、わたしのフィールドである南部のマサイランドをおとずれた。わたしにとってはおなじみのナイロビの街並みや人混み、それにフィールドの人びととその暮らしぶり。参加した学生にとっては、そのすべてが目新しいものだった。そしてまた、日本の大学生が5人もいるという状況は、ケニアの多くの人にとっても新鮮な出来事だったようだ。ケニア滞在中、日本の未来世代はさまざまなケニアの未来世代と出会い、交流をした。そのなかでもわたしの印象に残ったいくつかのエピソードを、ここではお話ししたい。

まずナイロビにて。東南アジアを何カ国も旅行したことがあるという学生が口をそろえていっていたことがある。それは、ケニアの人たちが優しいということだ。ナイロビの空港やお店で学生たちが片言のスワヒリ語で話しかけると、多くのケニア人が笑顔で優しく応対してくれたという。なかにはスワヒリ語をあれこれ熱心に教えてくれる人までいたという。のちに彼ら彼女らも遭遇したように、ケニアにも無愛想な店員さんはいる。とはいえ、東南アジアに行ったことがないわたしからすると、ケニアの玄関口ナイロビの空港や街中には親切なケニア人が多いという学生の感想は予想外のものだった。

またナイロビでの出来事として忘れられないのは、わたしの調査助手ジェレミアとの出会いだ。その日、ナイロビの街中でも人通りがとても多い国立公文書館のまえで、わたしたちはジェレミアと待ち合わせをしていた。ジェレミアは30代前半のマサイの男性である。といっても、彼はナイロビの大学を卒業して今では公務員として働いている。わたしのフィールドの感覚でいえば、彼はすごく成功した人物である。そんな彼は、ジーンズにカジュアルな襟付きシャツという、わたしたちと何ら変わりがないしナイロビでもごくごく普通の格好で現れた。しかし、その姿は学生たちには衝撃的だったという。事前にわたしは、ジェレミアがどんな人かを説明していた。それでも、ジェレミアが彼ら彼女らにとって初めて出会う「本物の生きたマサイ」であるとき、まわりの普通のケニア人とはちがう際立った格好をした誰かが来るものと思っていたという。だからわたしが「彼がジェレミアだよ」というまで、目のまえに来た男性がジェレミアだとは思いもしなかったという。

そうして日本人学生の思い込みの強さを痛感する一方で、ナイロビの大学生から受けた質問もまた印象的だった。ナイロビでも有数の規模と設備を誇る私立大学をおとずれたとき、日本人学生は自分がなぜケニアに来たのかを説明した。全員に共通する理由として、マサイへの興味関心があった。するとあるケニア人の学生が質問をした。「ケニアにはマサイ以外にもさまざまな民族がいるのに、なぜ、あなたたちはマサイにしか興味がないのか?」 それにたいして学生たちは、「マサイしか知らないから」あるいは「マサイ以外の民族についての情報が、日本ではとてもかぎられているから」などと答えた。外国人がマサイにばかり興味を寄せている事実は、ケニア人からするとやはり不思議なことなのだなあと思うとともに、日本の大学でアフリカについて教育をしている身としては、こうしたアフリカについての情報の偏りをどうにかして打破できないものかと思わずにはいられなかった。

マサイランドでは、ジェレミアの家に泊めてもらった。今年の4月に結婚したジェレミアは、トタンとブロックを使った立派な家を建てていて、なかにはソファやテーブル、食器棚、それにガスコンロまであった。わたしが当地を最初におとずれたとき、土壁・草ぶきの小屋に寝泊まりさせてもらい、食事は同じようなつくりの調理小屋のなかで、薪を燃やした煙にむせながらとっていたのとはおおちがいだ。水が不足したら携帯電話で水屋に注文して、三輪自動車で持ってきてもらうというし、朝食に食パンまで出されたときには、心底嘆息してしまった(これまでわたしが滞在していたときには、一度として出されたことはない!)。とはいえ、それはわたしたちが滞在しているから特別にそうしたというのではなく、普段どおりのおこないだという。いい職についたジェレミアの生活は、確実に彼の親たちのそれとはちがうものになっていた。

親世代とのちがいということでいえば、新婚のジェレミアとその妻アグネスとのイチャイチャぶりもなかなかのものだった。日曜日に教会に行くというので着飾ったアグネスを見て、学生たちは写真を撮りはじめた。すると二人はカメラの前で肩を抱き合った。「ヒューヒュー」とはやしたてる日本人にたいして、満面の笑顔でポーズをとるマサイのカップル。わたしがひとりで滞在していたのでは、およそ見ることがないような情景だ。日本人の若者に負けず劣らずケニアの若者も自分の写真を撮ることが好きだけれども、およそ人前で抱き合うなどということをしてこなかった彼らの親が見たら、はたしてなんというのだろう。

そんなジェレミア家に滞在するなかで、学生たちに何かテーマを決めて調査をすることを課した。すると、マサイ社会における紅茶の文化と歴史、ビーズ・アクセサリーの意味、学校と家庭における「尊敬」のしつけ、マサイの小学生の夢、マサイの女性(妻)の一日といったテーマを学生たちは選んだ。同年代のマサイの若者に通訳をしてもらいながらひとりひとり調査をするなかで、それぞれなりにマサイの社会や文化がどのように変わったのか、変わっていないのかを考えたようだ。その結果は別の機会に報告するとして、ひとまずわたしの断片的な印象記はここで締めさせてもらいたい。