「ほら、これがゴムの木だよ。」
コブナ兄さんが、畑を案内してくれていた。コブナ兄さんはとても魅力的だ。人懐こそうな瞳。惹きこまれそうな笑み。ただどうも、気になってしまうのだ。まっ白い上の前歯の間にあいた、大きなすき間。ちょっと海苔を細長く切って、お友だちの前歯2本の間に貼ったところを想像してほしい。まるでそんな感じなのだ。しかも「すき前歯」の人は他にもいて、街で出会うおじさんや、ときにはテレビのニュースキャスター嬢まで、間のあいた前歯で誇らしげににっこりしていたりする。
気になってしかたがないので、あるとき人に聞いたら、あっさり答えが返ってきた。
「うん、皆ああいうの好きなんだ。何もしなくても笑っているように見えるからね。」
ガーナの人たちは、笑みをことのほか大事にしているようだ。彼らの笑顔は、愛嬌があってとても人懐こい。もちろん仏頂面のときもあるが、ちょっとしたきっかけさえあれば、たちまち太陽のように笑ってくれる。笑顔はさまざまな扉をひらく。人見知りで引っ込み思案なわたしも、ガーナの首都アクラに住むうちに、だんだんわかってきた。たとえ怒ったり泣いたりしても、周りに止められたり笑われたり、ときにはびっくり顔で放っておかれてしまったりするけれど、親しげな笑顔で冗談まじりに交渉すれば、あら不思議、何とかなってしまうこともある。笑顔で扉を開く、というべきか。八方美人万歳である。
なかでも、お手本はアクラの美容師さんたちだ。どんなに疲れているときも、知り合いがヘアサロンの前を通れば、ぱっと顔を輝かせ、立ち上がり手をふって「おはよう!あなた今日もきれいよ、行ってらっしゃい!」。パーマをかけ終わった客が「その値段、高いじゃない」と文句をいっても、「ええ、だって私お金が大好きなんだもの!」と笑顔でその文句をなぎ倒してしまう。
いつもわたしの服をほめてくれる仕立屋のお姉さんも、笑って極意を教えてくれる。彼女は結婚しているが、それを知らない男の人がすぐ言い寄ってくるのだという。「携帯電話の番号をくれ、なんて言ってきたりもするわ。でも教えてあげちゃだめなのよ。こっちからかけるから、まずはあなたの番号をちょうだい、って言うの。」「それ、あとで電話するの?」「するわけないじゃない!でも、いつどこでその人の助けが必要になるか、分かんないからね。人には愛想よくしておくものなのよ。」
街の人たちも愛想がいい。男のひとも女のひとも、知り合いに会えば笑顔で抱き合い、あるいは握手をし、自分がどれだけ相手のことを好きか、相手のことを思っているかを伝えあう。
「ひさしぶり!どこへ行ってたんだい、会えなくて淋しかったよ。」
「どこへも行っていないわ、あなた、全然連絡くれないんだもの。元気だった?」
「来週電話するからね。」
「こんど、うちへご飯を食べにおいでよ。日曜の2時、絶対よ。」
実際のところ、それで本当に電話がかかってくることはほとんどない。日曜2時に汗をかきかき訪ねても、相手は田舎で親戚の葬式があり、金曜から留守にしてしまっているかもしれない。最初はいやになってしまったけれど、そのうち、それは決して彼らが嘘をついたということではないのだと思うようになった。会えなくて淋しかった、電話したい、自宅を訪ねあう仲になりたい。話している瞬間には、本当にそう思ってくれているのかもしれない。少なくとも、そういう言葉をかけるだけの関心を、わたしはあなたに持っていますよ、ということなのだと思う。
さまざまな公的制度がじゅうぶん整備されておらず、しかも、正しい情報にアクセスすることすら難しいガーナでは、頼りになるのは結局、「人」だということが多い。それも誰がいつ、どのように助けになるかわからないから、知らない人でもなるべく関係は持っておいたほうがよい。でも広い都会では、相手のことを深く知るのは難しく、心を許せる相手はなかなかいない。だから人びとは、簡単には深く打ちとけないかわり、言葉と笑顔で「あなたのことが好きですよ」「あなたのことを気にかけていますよ」という信号を広く軽やかに伝えあい、逆に「あなたのことが嫌いです」「あなたのことはどうでも良いのです」という信号はなるべく送らないようにしているように見える。
そんな笑顔は「不純」だ、と言う人もいるかもしれない。笑っていなくても笑っている、前歯のすき間のような笑顔は、変だという人もいるかもしれない。
でも、それなら、彼ら彼女らの笑みは、なぜこんなに魅力的なのだろう?
相手が悪い目的で近づいてきたのではない限り、目の前の笑顔が「純粋な」ものかどうか、いちいち疑う必要はないのでは、とわたしは思う。わたしはむしろ、その背後にある相手の気持ちと一瞬の好意を、そのままの形、そのままの軽さで受けとりたい。ゴムの木を見せてくれたコブナ兄さんの笑顔は、ただ温かくて素敵だった。相手が笑顔、こちらも笑顔、それでおたがい幸せな気持ちになれば、それで十分という気がする。ガーナの人たちも、もしかすると心のどこかでそう思っているのではないか。
ガーナの人びとを見習い、社交的なふりをしているうちに、わたしもだんだん、周りに人見知りだと信じてもらえなくなってきた。誰かに「あの子は楽しそうだね(ネフ ィェ ニカ=Nehu ye nika)」などといわれると、しめたと思ってしまう。余計なことを考えず、ニカッと笑って人に会いたいと思う。