ほほえみの森−ただ素直に生きられたら(カメルーン)

服部 志帆


森で休憩中の少年Ambo

 

それはきれいな薔薇いろで、
芥子つぶよりかちいさくて、
こぼれて土に落ちたとき、
ぱっと花火がはじけるように、
大きな花がひらくのよ。
もしも泪がこぼれるように、
こんな笑いがこぼれたら、
どんなに、どんなに、きれいでしょう。
(金子みすゞ「わらい」)

 

カメルーンの森に暮らす狩猟採集民のバカ・ピグミーは、うっとりと見惚れてしまう美しい笑顔をみせる。眼があったときのまるごと相手を包み込むようなやわらかな笑み、森に出かけたときの躍動的で穏やかな笑み、まだ幼い子供たちに見せる慈愛に満ちた笑み、歌と踊りの宴のときに見せるふつふつと沸き立つように高揚した笑みなど、どれもこれもこれまで私が日本で見慣れた笑みとは異なっているように思えた。


村での集合写真

 

このような笑みは、いったい何から生まれるのだろうか。鮮やかな花のような笑みを生み出すのは、バカ・ピグミーの素直なこころではないだろうかと思う。彼らは、子供であれ大人であれ、自分の感情にたいへん正直である。脂のいっぱいのったカワイノシシやとろけそうに甘いハチミツが獲れたとき、顔をくしゃくしゃにして喜ぶし、歌と踊りの夜が訪れたとき、愉快この上ないという様子でおどける。男女関係のもつれや近くに住む農耕民とケンカがあったときは、よくもまぁ考えつくなぁと思うほどの罵詈雑言を村中にまきちらし森を襲う嵐のように怒り狂う。家族や友人が亡くなったときは、ボロボロと涙をこぼし大きな声を張り上げてところかまわずわんわん泣く。バカ・ピグミーは日々起こる森のドラマに感情をフル回転させ、それぞれの思いをあらんばかりに表現するのである。

バカ・ピグミーはなぜこのように素直なのだろうか。それは、彼らの喜怒哀楽が生と深く絡まりあったものであるからだと思う。彼らは森から日々の食材を調達し、それを自らの手で料理し、家族で食している。たいていの場合、彼らを養う食料は森に十分あり、彼らが飢えることはほとんどない。しかし、雨の日や不猟が続いたとき、ひもじく眠れない夜が訪れることがある。雨がしとしと降る夜、「おなかが減ったよー」という子供たちの泣き声を聞いたことがあった。子供たちの母親は、ぐずる子供たちをなだめながらいたたまれない気持ちになったに違いない。


森で野生のヤマノ芋を食す男たち

 

当たり前であるが、人間は食べないと死んでしまう。バカ・ピグミーは、自らの手で食料を手にしてお腹を満たしたり、食料が手に入らず飢えるという経験によって、生の喜びと死の恐怖をつぶさに実感している。森での活動が、直接的に命の存続と幸福を左右するのである。バカ・ピグミーにとってもっとも身近で自然な理とは、お腹いっぱい食べれば体も心も満たされるし、飢えれば体も心もそこなわれていくという人間にとって根源的なものではないだろうか。

病気もまた彼らにとって切実な問題である。バカ・ピグミーは豊富な薬の知識を持っており、病気になったときはこの知識をたよりに本人やその家族が治療にあたる。森の世界には近代医療をほどこす病院や診療所がなく、先進国と比べると死亡率がすこぶる高い。とくに幼児死亡率が高く、女性はたいてい2〜4人の子供を失った経験がある。そのため、子供が病気になったなら、両親はとてもナーバスになり、子供の傍を離れなくなる。愛情深く子供に接し、やさしく抱きしめていっしょに眠ることもある。そのようななか、介抱のかいなく子供が亡くなったとき、彼らは大雨であられもなく氾濫した川のように泣き叫び、ときにショックのあまり声を失ってしまうこともある。人々はただ悲しみに暮れ、植物のおい茂る緑鮮やかな森の村はたちまち生気を失い、涙の川にのまれてしまう。


子供を抱く父親Papayee

 

しかし悲しみは続かない。しばらくすると、母親は少しずつ元気になり、再び新しい命を宿すようになる。たとえ、バカ・ピグミーは死の闇に落ち込んだとしても、生への情熱をゆらゆらと燃やして起き上がるのである。悲しみを悲しみとして、生きることを喜びとしてしっかりと抱きしめながら。バカ・ピグミーの笑顔がキラリと輝いてみえるのは、彼らが生と死をめぐる深い苦しみや悲しみを経験しながらも、折れることなく、素直なこころでのびやかに生を紡いでいるからではないだろうか。

森を歩いているとき、どこからともなくバカ・ピグミーのやわらかな笑い声が聞こえてくることがある。姿のない笑い声は、風に揺れるこずえの音や鳥たちのにぎやかな歌声とまざりあい、まるで森が笑っているみたいに聞こえる。なんとも楽しそうである。ほほえみの森で、自然の恵みに寄り添いながらただ素直に生きたのなら、笑顔はこぼれおちる花になるのだろうか。


Bembaの花と少年 Awoupa