「嘘つきは泥棒のはじまり?」(ガーナ)

織田 雪世

アクラ(ガーナの首都)の人たちは嘘がうまい…などと言うと、誤解をまねくだろうか。「かならずしも本当ではないことを言う」のを嘘とするなら、の話なのだが。 たとえば朝、道で顔なじみと挨拶する。「おはよう、どこへ行くの?」「ちょっと街までね」「じゃ、わたしにチョコ買ってきて」「オーケー」。でも本当は街ではなく、誰かに会いに行くのかもしれない。相手はチョコレートが欲しいわけではないかもしれないし、言われたほうも、おみやげを買うつもりはないかもしれない。

知らない場所への行きかたを、まるで知っているかのように説明されるのも、よくある話だ。言われたとおりに行ったら、全然たどりつけない、なんて羽目になる。もしくは「すぐ行くから」と言われて待っていたけれど、1時間たっても相手が来ないというのも、ガーナにいれば何度も経験することだ。

いつも通る道。顔なじみとの挨拶が欠かせない

はじめは相手の言うことを真に受けて怒ったり泣いたりしていたわたしだが、そういう問題ではないのだということが、暮らしているうちにわかってきた。たとえば朝の会話は、相手からの無用な詮索をかわし、いろいろな人とコミュニケーションのキャッチボールをするための「嘘」。道案内の「嘘」は、せっかく尋ねてくれた相手をがっかりさせたくない、優しさが原因のひとつ。来るといっていた人は、本当はそのつもりでいたのだけれど、折悪しくやってきた客を追い返すことができず、ついつい出かけるのが遅れてしまった、ということだったりして。

ガーナ生活になじむにつれて、わたしもだんだん、この技をつかうようになった。街でちょっと贅沢な買いものをしても、相手にあげる余裕がないなら、「これは頼まれもので、わたしのものじゃないの」。旅行に行くときも、「知りあいの家に泊まりにいってくる」とさりげなく。嘘をつくときは、なるべく本当らしく、一生懸命嘘をつく。中途半端な嘘は、その目的が果たせないばかりか、無用な不信感を抱かせることになり、相手にも申し訳ない気がするからだ。

とはいえ、どこの国にもいろいろな人がいるわけで、なかには詐欺まがいの嘘もあるし、嘘が上手だということは、他人を信用しにくいということでもある。わたしには信頼をよせるガーナの人たちが何人かいるが、初対面の人に「いいかい、誰も信用しちゃいけないよ。信用していいのは、神様だけだよ」と真顔で忠告されたことが何度かある。「わたしは友だちをつくらないの。誰とも明るく挨拶して、楽しくおしゃべりするけど、それだけ。友だちは打ちあけ話を他人にばらしたり、自分を裏切ったりもするからね」という人も、何人か知っている。

それってどういうわけなの?と、教会で人びとの相談にのっているエドモンドに聞いてみた。エドモンドは言う。「友だちっていうのは、いいもんだよ。でもどんな友だちにも、大事な話を全部打ちあけるなんてことをしちゃいけない。何が起こるかわからないからね。たとえばあるとき、その友だちに、自分が大事にしているものをくれと言われたとする。でも自分はあげたくない。すると友だちはそれを恨みに思って、自分がかつて打ちあけた秘密をばらしたり、自分を裏切ったりするかもしれないだろ」。こういうわけで、「嘘」はまた出動するのかもしれない。相手になんでもかんでも話すのを避けるため、もしくは、相手にねたみの気持ちを起こさせないために。

それを、信頼感のない社会だ、ということもできるだろう。でも、かつて貧乏学生としてバイトを3つかけ持ちし、学業に専念できる友人たちをうらやましく思う日々を過ごしたことのあるわたしには、彼の言葉を、そんなふうに切り捨てることができない。それはむしろ、人間の本性をある程度見極めたうえでなされた、ひとつの覚悟なんじゃないか、とも思えてしまう。

人ごみの中で、見つめる

嘘には、いろんな種類がある。コミュニケーションのための嘘、相手を傷つけないための嘘、無用な攻撃から自分をまもるための嘘、などなど。わたしたちが日々の生活でつかう建前も、こうした「嘘」のひとつかもしれない。もちろんなかには、他人を傷つけるような、本当に情けない嘘もある。できれば嘘をつかず、逆につかれることもなく過ごしたいと思う。でも…。

「あら、おはよう。どこ行くの?」
「うん、ちょっと街までね」

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。