踊れる人になりたくて(ガーナ)

織田 雪世

教会バンドの演奏が始まった。私たちは立ちあがり、順に正面へ進んで、募金かごにお金を入れていく。流れる音楽は弾み、喜びに満ちている。踊るように身体を動かしながら歩く人、席に戻っても座らず、両手を天に向かって広げ、笑顔でひとしきり踊る人。ガーナのキリスト教会ではよくある風景だ。とはいえ、踊らない人も結構多い。今日はエドモンドの結婚式なのに。

結婚式に駆けつけた人々

私の知る限り、ガーナの人の多くは踊りが好きだ。結婚式でも踊るし、葬式でも踊る。若者たちはクラブで、最新の音楽に合わせて踊る。最近は、伝統的なダンスと日常の動きを組み合わせた”Azonto”というダンスが大流行らしい。伝統的なダンスも地方ごとにあり、それぞれの動きに意味があったりと奥深い。ガーナを初めて訪れたとき、子どもたちがテレビCMの音楽にあわせて突然踊りだしたのには驚いた。物売りの少女がラジオの音楽に合わせ、頭に商品を載せたまま踊りだしたこともある。まるで、身体の中にリズムが備わっているみたいだ。

私は運動ができないし、リズム感もない。それにガーナの踊りは日本とリズムが違うようで、どの拍子に合わせたらいいのかとか、足の動きはどうなってんだとか、踊っているうちにどんどん困り果ててしまう。だからガーナの人たちを見て、あんな風に踊れたらいいな、と思ってきた。

エドモンドの結婚式はつつがなく終わり、隣の広場で披露宴が始まった。新郎新婦の姿に、ヒューヒュー祝福の声が飛ぶ。広場を取り囲むようにテントが張られ、正面には新郎新婦やその両親、その脇にはウェディングケーキ、反対側にはドラムセットやアンプ、スピーカーなどが並ぶ。都市部の結婚式は都会的だ。バンドが演奏し、歌手たちがゴスペルを歌い始める。手に持っているハンドバッグがビリビリ震えるほどの大音量で、音は割れまくっているけれど、とてもいい音楽だ。でも見渡すと、皆はやっぱり黙ってじっと座っている。表情も素のままで、一見「楽しくないのかな?」と思ってしまう。でも、よくよく見ると、パンフレットを持った手が音楽に合わせて動いていたりする。どうやら、それぞれの中では音楽を楽しんでいるらしい。

友人たちが結婚祝いのシャンパンを開ける

そのうち1人の女性が進み出て、広場で踊り始める。それは、流行の踊りでもなんでもない。音楽に合わせて歩くようなステップ、肩や腰は揺らすけれど派手な動きはない。見せるための踊りじゃない。でも、心地よさそうで、嬉しげで、この結婚式とその音楽を心から楽しんでいることが伝わってくる。「あのひと、勇気あるわねぇ」と、私と一緒に座っていた別の女性が言う。「行ってきたら?」と言うと「無理無理!恥ずかしいもん」と手を振った。でも彼女も、何だか楽しそうだ。身体は全然動いてないけれど。

そうか、無理に踊らなくてもいいのか。黙って音楽を楽しんでもいい。見せるために踊る必要もないし、踊っている人に無理に注目して、手拍子を続けたり、にこにこしたりする必要もない。もし、身体が動いてその気になったら、踊りたいように踊ればいい。

新郎新婦が踊りを披露する番になった。「写真を撮りなさいよ」とそそのかされ、私もカメラを構えて広場に出る。最初は恥ずかしそうだった新婚夫婦もだんだん乗ってきて、抑えきれない笑みとともに、新郎は新婦にAzontoを踊ってみせる。友人たちがそれを取り囲み、写真を撮ってはやしたてる。リズムとともに幸せな空気が満ち、写真を撮りながら踊る人もいて、私も自然に身体が揺れる。どこからかおばさんが出てきて、汗で光った新郎新婦の額に、お祝儀の1セディ札を貼りつける。

踊る新郎新婦

式が終わっての帰路、さっき一緒に座っていた女性が嬉しそうに話しかけてきた。「なーんだ、あなた、踊れるじゃない。」あらら、ほんのちょっと身体を動かしただけなのに、見られていた。「踊れないって言ってたのにね。皆の前で踊るなんて、大したものだわ。」

そうか、そういうことか。

自信はないけれど、私もどうやら、「踊れる人」の仲間に入れたのかもしれない。なんだか、思わぬ結婚式の贈りものをもらったみたいだ。