ジェリー缶から奏でる音(エチオピア)

山野 香織

関西では夏祭りの時期になると、だんじり(関東でいう山車)に乗せている太鼓の、タンタカ、タンタカ、タンタカ、タンタン、タンタカ、タンタカ、タンタカ、タンタン・・・・・・という音がどこからともなく聞こえてくる。幼い頃から馴染み深いこの音を聞くたびに、あぁ今年もだんじりがやって来たなと、今でも全身から血が沸き立つような興奮に包まれる。

 

それと似たような興奮を、エチオピアの静かな農村集落で経験するとは思わなかった。

 

集落を横切るシュシュマ川は、この近辺に住む人々の生活にとって欠かせない川である。女性は川に足だけ浸って洗濯をし、男性ならば日差しの下で水浴びをし、子どもたちは素っ裸になって泳ぐ。人々はまた、家庭での食器洗いや手洗いに用いる、飲み水以外の水を汲むために、一日に何度もこの川を往復している。

この集落に浸透しているプロテスタント系キリスト教徒にとっても、シュシュマ川の存在は欠かせない。年に一度開催されるお祭りの日には、シュシュマ川のほとりに大勢の人が集まり、10代の青年たちが全身を川の中に浸され、信者になるための洗礼式が行われる。その川沿いでは太鼓を叩く聖歌隊を筆頭に、周囲の人々も手拍子をしながら足踏みをし、歌をうたう。

 

一日中、タンタカタカタン、タンタカタカタン、タンタカタカタンタン・・・・・・と鳴り止むことなく、夜遅くまで太鼓の音が響いていた。しかし、私の興奮をかきたてたのはその太鼓の音ではなく、もっと素朴な「楽器」の音色だった。


川で洗濯

 

シュシュマ川の近くで住み始めたとき、毎日どこからかともなく、タンタカタカタカ、タンタカタカタカ、タンタカタカタカタン・・・・・・という音が聞こえてきた。山の向こうの方から聞こえてくるときもあれば、すぐ近くから聞こえてくるときもあった。この音が聞こえてくるたびに、故郷のだんじりを思い出しては血が騒ぎ、音がする方へと足が自然に動くのであった。しかし、どこまで歩いてみてもお祭りのようなものをしている様子もない。近くにいた人に、「あれは何の音なの?」と尋ねても、「子どもがどこかで遊んでいるんじゃない?」と答えるだけ。

 

それが何の音だか分かったのは、シュシュマ川へ水汲みに行く女性とすれ違ったときだった。エンセラという土器でできたつぼを、水汲み用に持ち運ぶ女性もいるが、たいていはジェリー缶(水を入れるプラスチックの容器)を使っている。ジェリー缶は5リットル用から10リットル、20リットル用があり、幼い子どもでも5リットルくらいなら簡単に持ち運ぶことができる。


水汲みに行く子どもたち

 

そのとき私がすれ違った女性は、まだ水を入れていない20リットル用のジェリー缶をわき腹に抱えて、手持ち無沙汰な様子でジェリー缶をある一定のリズムで叩いていた。

タンタカタカタカ、タンタカタカタカ、タンタカタカタカタン・・・・・・。
タンタカタカタカ、タンタカタカタカ、タンタカタカタカタン・・・・・・。

あ、これだ。この音だ!私を興奮させ続けていた、ずっと探していた音の源泉はこれだったのだ。でも、みんな無意識のうちにジェリー缶を叩いているだけで、顔もほとんど無表情。彼女たちにとっては鼻歌のようなものなのだ。おそらくこんなことで感動しているのは、集落のなかで私くらいだっただろう。


ジェリー缶を叩きながらステップを踏む子ども

 

ジェリー缶を叩くのは、水汲みに行く人たちだけではなかった。子どもたちにとっても、ジェリー缶は恰好の遊び道具だ。木陰のところで、一人がジェリー缶を膝に乗せて太鼓のようにして叩き、周りを囲む子どもたちが手拍子とともに歌をうたう。

タンタンタンタン、タンタンタンタン、タンタンタンタン・・・・・・という音とともに、子どもたちの歌声が青空にこだましていた。

ジェリー缶を叩く音は、太鼓を叩く音ほど大きく響くような音ではないが、軽やかで、素朴な音がする。飾り気のない音だから、心に響くのかもしれない。


ジェリー缶で演奏会

 

音譜を頼りに演奏することにしか慣れていない者にとって、ジェリー缶の奏でる音はいかに新鮮なものだろうか。音を出すことが、演奏することが、こんなに簡単なことなのかと実感できる。鼻歌をうたうように、ジェリー缶の側面を指先でポンッ、ポンッと叩くだけでいいのだ。

日中の強い日差しを避けて、近所の藁葺き家の屋根の下で涼んでいたとき。隣に座っていた少年が、持っていたジェリー缶を指先で叩き始めた。無表情で、遠くを眺めながら。その音を聴いて私はやはり血が騒いだ。目を閉じて耳を澄ましてみると、生まれ育った故郷に帰ってきたような気にさえなった。